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からだをうごかすときに"意識"はひつようなのか?③

 『意思をはたらかせる』ことは、そのひとのもっている「こうしたい」をつよめ盲目的になりやすいのではないか、

ということを前回かいた。

 からだに痛みがあるとき、その傾向がつよくなる気がする。ひとにとって痛みは不快なものだし、そのつよさがおおきくなれば耐え難いものとなる。

 毎日の暮らしへの影響もおおきいから、からだに痛みがあるかないかで日々の気分はずいぶんとちがうものになる。
 だから、ひとはからだに痛みがあるとき「痛みをすぐにとりたい」となるのはとうぜんのことだと思う。

 ただ、「痛みをはやくとりたい」となるのは自然なことだけど、実際にリハビリテーションをすすめるときは、その意思のはたらきがあやまった方へすすんでゆくことはある。

 簡単にいうと、あたまのイメージが先立って、からだの状態をみれていない。つまり「痛みをとりたい」とつよく願うことはできても、その痛みをとるための行動をとれていない。


 本人はそのことに無自覚だから、からだに負荷をかけすぎて痛みがでているときでも、ひとによってはさらにからだに無理をさせて、痛みをつよめていることもあるし、やることをやらずにイメージばかりをふくらませているケースもある。

 どちらにしても意思をあやまった方へはたらかせていて、意識をはたらかせられていないのではないのか?と思っている。

トレーニングの話からだいぶそれてきているから、トレーニングに話をもどしたい。が、まだからだの内につかえているものを感じる。

 そもそもじぶんが気になっている『意識・意思・意志』のほかにも、ひとがからだを動かすときには感情や欲、そとの環境などもかかわっている気がするし、そんなかんたんに説明できるものでもない。

このままこたえを出せないままおわるかもしれないし、じぶんなりにこう考えている、という形でしめるかもしれない。

今日はここまで。
まとめることができたらひとつの記事にします。

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