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サッカーほど危険なスポーツはない。【川渕三郎Vol.1】

日本サッカー界の独裁者 川淵三郎 Vol. 1

今回はJリーグの初代チェアマン川淵三郎について話したいと思う。
日本プロサッカーの生みの親とされているが…。
彼の”悪質ファール”の数々に触れてみよう。

まず川淵は無類のゴルフ好きでホームコースが「千葉東」。
チェアマン時代は、秘書が持っているA4サイズのスケジュール表に 「G」書いてあればゴルフ。
サッカー協会の会長に就任後、「キャプテンズ杯」と名付けたコンペを、毎年12月に行っていた。
付き合いのある作曲家、ミュージシャン、女流作家、あと新聞社・テレビ局の幹部クラスを呼んで悦に入っていた。

「K」と書いてあれば講演会。
毎月、少なくとも4カ所にGと書いてあった。ちなみに「K」にも精を出し、一日に2個の「K」の文字書かれていることも。
「K」のギャラは、すべて川淵三郎の個人会社「川渕企画」に振り込まれた。
サッカー協会会長が行う講演会の報酬の流れはいったいどうなっていたのか!?
最盛期のギャラは50~100万円。

オシム代表監督が2007年11月16日に脳梗塞で倒れ、川淵三郎はマスコミの前では 「かなり厳しい状況と聞いている。命だけは取り留めて欲しい」と涙を流していたが、17日には福島で講演会を行い、18日はオフ、 19日はサッカー協会内でラジオ番組を収録を行い、20日は群馬県内で講演会と飛び回った。 2回の講演会で締めて約200万円の荒稼ぎだ!
さすがにGはなかったようだが…。

そして21日に、旧国立競技場で行われた五輪予選サウジアラビア戦を観戦し、 その翌日から「風邪と心労」を理由に「22~28日は自宅で静養。
オシム代表監督が危篤状態だと言うのに私用である講演会を2件、ラジオ番組収録を予定通り行い、それで風邪だの心労だの何を寝惚けたことを言っているのか? 
という声は当然サッカー協会内からも聞こえてきた。

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