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責任という虚構 小坂井敏晶

読みかけの本があったんだけど、たまたま友人が小坂井先生のYouTube動画を紹介してくれたので、また『責任という虚構』を読みたくなって手にとった(本をデータ化してKindleに入れている)。「また」と書いたが実は修士論文執筆中に必要な第一章を読んだだけで全部は読んでいなかった。今読み終わって、先生の言ってたことの1割も理解していなかったことが分かって悲しい。しかし10年前にも、面白いところにマーカーが引かれていた。

地獄への道は善意で敷き詰められている。ものを考える際の最大の敵は常識という名の偏見だ。責任とは何かというような倫理的配慮が絡みやすいテーマについて考えるときこそ、常識の罠を警戒しなければならない。(はじめに)

本書の構成は以下の通り。

序章 主体という物語
第1章 ホロコースト再考                       第2章 死刑と責任転嫁
第3章 冤罪の必然性
第4章 責任という虚構
第5章 責任の正体
第6章 社会秩序と<外部>
結論に変えて

1章ではホロコーストがなぜあんなに上手く行ったのかを考察。ミルグラムが証明した権威への服従(上から命令されると誰でも従う)、ヒルバーグやブラウニング『普通の人々』があぶり出した官僚的作業分断による責任転嫁、銃殺でなくガス室で大量に殺害し相手を人間だと思わせない心理的距離のとり方(テクノロジーの進化による殺人の際の距離の取り方に加え、相手を人間と考えない方法。ルワンダジェノサイドでツチは「ゴキブリ」と言われた。dehumanizationはその他重大な人権侵害においてよく見受けられる)、正当化システム(ユダヤ人に「自らの罪」を認めさせたりして行為を正当化させる)、ジンバルドがスタンフォード実験で見せた集団的力学(あるいはこの実験は役割が与えられたことに依る作用と言われている)。それはすべて、自律的な人間像に疑問を投げかける。虐殺に直接関わった人は、合理的に効率よく殺さなければならず、そこにはかなり冷静なシステムの構築があった。

2章は主に日本における死刑についての考察。現代の日本において、裁判官、大臣、刑務官、死刑執行人(日本の場合数人がボタンを押すことで誰が殺しているかわからないようになっている)、処刑された死体を扱う服役中の受刑者(これは知らなかった!)などが死刑執行の分業化をすることで死を曖昧にし、心理的負担を減らし、死刑制度の存続を可能にしているかが書かれている。心理的に負担をへらす手段さえ取り入れたらナチスの犯罪にも加担できるのか?と疑問を投げる。

3章は冤罪の必然性について。検察官は意地悪で自白を強要しているのではなく、相手が犯人だと思っているから、その証拠を得るために最大の努力をしているだけ。一つの事件を立証するのに、沢山の人が関わっている。みんなが出来上がったストーリを維持するのに必死で、気づいたら大きな嘘が確立されている。個人の意思を超えたところで集団行為が自己運動を展開しており、冤罪は意図的に仕組まれる逸脱行為・事件ではない。

4章はかなり哲学的なお話で、私は5回くらい白目を剥いた ( ゚д゚)ポカーン しかし、基本的に小坂井先生が言いたいのは、発想の転換の必要性だと解釈。

意志は各個人の内部に属する実態ではない。それは社会秩序を維持するために援用される虚構の物語なのだ。(149ページ)
(…)「自由による因果性」とは意志と行為との間の因果性ではなくて、じつは意志と責任を負うべき結果との間の因果性なのである。ある行為の行為者に責任を負わせることをもって、事後的にその行為の原因としての(過去の)意志を構成するのだ。(150ページ)

意志と単なる願望を分ける基準は結局行為が起こった事実でしかないため、意思の存在は事後的に構成される。つまり時間軸上の因果論(意志→行為)では責任を捉えることが出来ない。ギリシャ語において「原因」は「罪」を意味しており、意志よりも責任や罪のほうがより基礎的な観念だった。道徳責任の根拠は社会規範にあり、自由意志の有無は関係しなかった。またキリスト教では人間を超越する神という絶対者がいた。したがって、なぜ罰するかという答えにギリシャ人は「社会が罰を要請するから」といい、キリスト者は「神がそれを欲するからだ」という。妊娠中絶、脳死、臓器移植等々、正しいからコンセンサスが生まれるのではなく、コンセンサスが生まれるから正しい。似たように、犯罪は何かと考えてみる。犯罪が発生するから怒りや悲しみが生まれるのではなく、社会規範からの逸脱が怒りや悲しみを生み、それによって犯罪が称されるのだ。悪い行為だから我々は批判するのではなく、社会的に非難される行為を我々は悪と呼ぶのじゃ(by ドゥルケーム)。同じように、責任の生まれからも、自由意志→行為と考えるとまったく責任のソースを理解できない。

5章にて、ついに責任の正体が明らかに!前置きとして、昔は死体や動物植物(!!)、あるいは子どもや精神疾患者も処罰の対象になったことを説明。また、通常の殺人事件の場合犯人として個人のみを罰したのに、王殺しの際はその家族全員が処罰された。なぜこんなことが起こったのか?意志を持たないはずの死体や動植物に責任は生まれるのか??なぜ犯罪行為の対象により、責任が個人になったり、集団になったりする?ポール・フォーコネはこう説明するー「社会秩序が破られると社会の感情的な反応が現れるが、それを沈め社会秩序を回復するために儀式が生まれる。これが責任という社会装置である」と。事件のシンボルとして何が選ばれるかは時代や文化に異なるから、見せしめとして昔は死体や動物が使われていた。この見せしめは現代日本の謝罪文化にも当てはまる。会社の社長が従業員の犯罪行為に対して謝罪するのは、社長に責任があるからではなく、それが社会秩序を回復するための儀式のためである。責任は因果律に基づかない、社会秩序を維持するための社会的虚構ということです。

6章では人類学的な話まで出てきて、小坂井先生の猛者ぶりがハンパないです。マオイ族の霊ハウは置いておいて…。神の死を迎えた近代では個人は自律性を獲得しますが、集団は個人を超越し自立運動をする。人間の作った秩序なのに、それがどの人間に対しても外在的な存在になり自律運動を始める。そして集団現象は我々を無意識のうちに拘束し、社会制度を安定化させる。この人間の外部にあるものは「神」であったが、今では「市場・法体系」だ。しかし、道徳の外部にそれを支える道徳はなく、法も虚構である。パスカルも「法の依拠するところをよく調べようとする者は、法がはなはだ頼りなく、またいい加減であることに気づくだろう」と言っている。社会秩序は自己の内部に根拠を持ち得ず、虚構によって支えられなければならない。階層制度という<外部>に支えられている社会装置があれば、自分の不幸の原因を外部要素に転化できる。格差の存在は秩序の正しさだ。一方、ロールズ『正義論』で書かれていた公正な社会、<外部>に支えられていない社会では、階層分布が正しい以上自分が劣っている原因は自分にあり、最底辺の人は逃げ場がない。現実的には平等な社会は存在しないから、常に理屈(<外部>の社会装置)を付けて格差を弁明しなければならない。つまり、「虚構のない世界には人間は生きられない。」

(私の理解できた範囲での)まとめ

現代社会において、人間は意思を持ち行動をコントロールできる(デカルト的発想)と考えられていることから、意志、行為、責任の関係はは以下の通り理解されている。

(...)個人資質を原因として犯罪行為可能性が高まるにつれ責任は逆に減少する。言い換えるならば、社会を保護する目的で科すべき正当な罪の重さは責任の重さに反比例する。(11ページ)

本当にそうなのか?という疑問に答えるために、本書では人間の自律性にメスを入れ、いかに外部からの影響を受け行動するかをまず説く。4章目から読み応えがあり、そもそも意志があるから責任があるという考えの出発点がおかしく、発想の転換が必要だと述べる。責任の根拠は意志だとされていたが、実は根拠なんかはなく、社会の秩序を維持するための社会装置で、かつ私たちがコントロールできるものではない<外部>に存在する、虚構なんですよと結論づける。ふむ〜。みんな責任の原因を考えてるけど、そもそもが(隠蔽された)嘘っぱちなんですよという話か…。人間は合理的なのではなく、合理化する動物ということか。

なお、「あとがき」は研究者なら誰もが励まされると思うので、ぜひ読んでもらいたいです。自分のアイデンティへの疑問を学問と結びつけて、骨太な研究をし続ける小坂井先生。実は修士論文中、同じようなテーマでたくさんの本を書いてた日本人研究者がいることに感銘を受け、小坂井先生に会いにパリに行こうかと思った。「ただの一ファンのロンドンの学生が『コンチハー!』って会いに行っても無理ですよね…」って当時33くらいの男性の友人に言ったら、「はあ?俺だったら若い女の子が自分に会いに来てくれたら絶対嬉しいけど。全然だいじょうぶっしょ」みたいに言われた。今となっては若くないので「若い女の子」の箇所にだいぶ引っかかるが、それでも自分が熱意を持って面識のない人にアプローチすることは私が思っているよりも社会では受け入れられるのかなと思った。結局小坂井先生には会いに行かなかったんだけど、引っ込み思案な自分を見直す良いきっかけをくれた出来事だった。

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