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Covering by Kenji Yoshino

# 毎日論文生活1日目から7日目まで読んでいたKenji Yoshino著『Covering』。著者はイエール大などで教鞭を取る、日系アメリカ人の法学者。著者はオックスフォード大のフェミニズムの先生に紹介された。あまりセクシャリティに学術的関心はなかったが、日系アメリカ人ということで著者に関心を持ち著書を読んでみることにした。

本書はパート1とパート2と大きく分かれており、トピック(?)は以下の通り。

An Uncovered Self
Gay Conversion
Gay Passing
Gay Covering
Racial Covering
Sex-Based Covering
The End of Civil Rights
The New Civil Rights

アメリカにおける同化(assimilation)のプレッシャーは、時とともにConversion, Passing, Coveringと形を変えていると主張。Coveringのコンセプトはアメリカ合衆国の社会学者ゴフマンの著書『Stigma: Notes on the Management of Spoiled Identity』に基づくもの。パート1では自身の経験に基づきゲイを巡るConversion, Passing, Coveringについて考察。パート2ではこの流れを人種と性別に関連させ考察する。

現在アメリカでは昔と異なり、ゲイであっても"矯正"治療(Conversion)を受けるプレッシャーなどはなく、「自分らしく」生きることができているように見えるが、同化のプレッシャーはCoveringという形で出てくる。つまり、ゲイであることを変えたり隠す必要はないが、「目立たないようにしろよ」ということ。それはゲイに対するプレッシャーのみでなく、人種的マイノリティ、宗教的マイノリティ、障がい者や女性などにも当てはまる。ゲイ等、外から分からないアイデンティティのみならず、外から明らかである属性に関しても、様々な方法でカバーすることで同化を促す。このプレッシャーは目立たなく、今では当たり前のように扱われているが法がうまく対応していない人権侵害であると著者は主張する。

パート1第2章のGay Coveringは本書のコアとなる部分だが、Coveringを見るうえで必要な座標として、著者はAppearance, Affiliation, Activism, Associationを挙げる。例えば、Appearanceとしては、ゲイがどれだけ女性らしい恰好を避け、"straight-acting"するために男らしさを追求するか("As Goffman observes, stigmatized groups often seek to "normify" their own with particular intensity.")。Affiliationはゲイ・カルチャーについてだが、Queeer Eyeからも見られる通り、ゲイ・カルチャーは隠されるのではなく、むしろストレート社会の消費対象としてもてはやされている。これは、アジア系アメリカ人のステレオタイプがポジティブなものであっても、ステレオタイプに変わりはないという構造と似ている。また、マイノリティの尊厳としてのマイノリティのカルチャーが受け入れられているわけではなく、マジョリティの都合の良いカルチャーだけが選択されている。Activismはゲイの権利のため行動しているか。最後にAssociationはちょっと分かりづらかったけど、"gay individuals are more palatable than gay couples?"ということかなと理解。「ゲイでも愛されるなら、(ストレートの)私がもっと愛されてもいい」「ゲイであってもいいけど、公共の場でキスとかすんなよ(一方で男女カップルのキスは公共でも特になんも思わない)」みたいな、人々の心の底に眠るダブルスタンダードが内面化されるため、gay individualsではいられるけど、gay couplesには抵抗があるということか。

この章では、これらのCoveringへのプレッシャーは裁判からも見受けられるとして、Shahar v Bowersを解説する。本裁判では、レズビアンであるShaharの雇用取消は、彼女のレズビアンであるというステータスの差別によるものではなく、ステータスに呼応した彼女のConduct(この場合、ジョージア州で法的に認められていない同性婚)がAttorney General's Officeの評判を落とすことに起因するとして、Attorney General's Officeの雇用取消を正当とした。同じ理屈として、KKKメンバーがその行為が問題とされ正当に解雇された例が裁判中挙げられているが、レズビアンの結婚という同性間なら問題ない行為がKKKメンバーの行為と同様に扱われているのには驚いた。レズビアンであることは問題ないけど、同性婚という行為はダメというのは、行為ではなくステータスによる差別ではないのか?

また、ゲイの場合は子どもの養育権が得にくいことも指摘。しかも、ゲイであっても、パートナーがいなければ養育権を得ることができるケースもあるが、パートナーがいる場合は「多感な子どもに影響がある」として養育権を認めない場合が多いという。これまた、「ゲイでいてもいいけど、おおっぴらにすんなよ」というプレッシャーの現れ。異性パートナーがいる場合と同性パートナーがいる場合では社会からの見方が全く変わってくる。

パート2では、ゲイを中心に説明したAssimilationプレッシャーを人種や性に当てはめる。アジア系アメリカ人であることをCoverし"Act white"する方が、ゲイをCoveringより簡単と著者は言うが、その理由はちょっとクリアーではなかった。一方、裁判ケースとして引用した1981年のRoger v. American Airlinesは面白かった。航空会社ではコーンロウという髪型を禁止していたが、これはアフロアメリカンに根付く文化であるため、黒人女性を対象とした差別であると主張。結局、前述したShahar v Bowers同様、黒人であるというステータスの差別ではなく、コーンロウをするという行為を禁じているものであるから差別ではないと判断。これは結局、黒人女性に対して「黒人のままでもいいけど、目立たず白人女性のヘアスタイルにしてね」と言っているようなものだ。

Sex based coveringの章は女性に焦点を当てるが、女性の場合、他のアイデンティティとは違い、coveringとreverse covering両方のプレッシャーを受けるという。つまり、プロフェッシャルになるためには女性らしさをカバーする必要があるものの、それでも女性らしく振る舞うことも求められる。このdouble bindsは、ゲイや人種に関してはあまり出てこない。ケースとしては、化粧をしないということで解雇された女性バーテンダーの裁判(Jespersen v. Harrah's Operating Co.)が挙げられていた。原告は化粧を強要することは性別に基づく差別であると主張するが、バーでは男女別それぞれにドレスコードがあり、どちらかに対して特別なburdenをかけるものではないため差別ではないと裁判所は結論づける。フーン…。1974年に出された妊娠による差別は性差別じゃないとするGeduldig v. Aielloもジョークみたいに思える。

New civil rightsについてが最後なんだが、ここではグループベースの人権に主張ではなく、ユニバーサルな権利の主張に主眼を置くべきだと主張。つまり、例えば車いす利用者が建物に入る権利については、「人々が建物へのアクセスできる権利」みたいにblanket applicationをすべきとのご意見。こうすると、グループベースの主張になる際にグループのなかにいる人をessentializeしがちという問題を避けることができる。確かに女性差別撤廃条約もへトロセクシャルで結婚し子どものいる女性を念頭として書かれたものとして批判されていた。また、conductがCoveringかどうか判断するのはとても難しい。女性が自転車を直すのは女性性を隠すためなのか、アフリカ系黒人がドイツロマン主義の詩の研究をしていた場合、彼は”acting white"なのか?もしかしたら両者ともただ単に好きでやってるのかもしれないよ?と。ただ、エッセンシャリズムに関しては理解できるが、世界人権宣言を発端としてどんどん個別の人権条約ができたのは、念頭に合った人権がやっぱりほかのカテゴリーの人々がデフォルトの人間(=欧米のへトロセクシャル白人男性)をベースにしてたからだと思うので、今更ユニバーサルな主張にして効果的なんだろうか?流れとしては、Yogyakarta Principlesみたいに、今更新しい権利など主張する気はありませんが、「ユニバーサルな権利」は特定のグループにもちゃんと適用されることを再確認してください!!って感じだと思うんだけどなあ。かつ、やっぱユニバーサルに主張されるべきでない人権もあるんじゃないかと思う。安全に避妊する権利とか。避妊と言わずに「健康への権利」とか広く主張するのが有益なのだろうか(ハッキリ言わないと分からなくない)?途中まで面白かったが、最後の章でモヤっとなりました。

以下、印象に残った文章の抜出。

...[I]f a human life is described with enough particularity, the universal will begin to speak through it. (xii)
I argue for a new civil rights paradigm that moves away from group-based equality rights toward universal liberty rights, and away from legal solutions toward social solutions. (p.27)
The victory lies in the recognition of women's merits when they meet the male standards. The limits lie in the failure to recognize that the standards is the male one. (p.160)
As the rhetorics of "colour blidness" or "Don't ask, don't tell" indicates, the law's dominant reaction to difference has been to instruct the mainstream to ignore it and the outsider group to mute it. (p.182)

これは、著者の半生を振り返る本でもある。自分がゲイであると認識したとき、著者は武器を持つために、詩人ではなく法律家になることを決める。そう決断した過程や、ご両親にカムアウトしたときの心境など興味深かった。一方、権利の主張は法に期待すべでないってところも面白かった(法学者なのに…)。

私も自分のアイデンティティをmuteし誇張しないよう、多数派や力のある人たちに合わせcoveringする一方、アジア人であるアイデンティティに関し、forced flauntを求められることがある(寿司作れとか箸使えとか食に関することが多い気がする)。ヨルダンにいたときは、ちゃんと化粧するなど女性らしさをすごい求められた一方、膝丈スカート履いちゃだめとか、色んなプレッシャーがあって混乱したなあ。男は服装について何も言われないからなあ。そんなことを思い出しました。




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