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靴がないからどこへも行けない~ゲーム【OU】1周目とその先の可能性の感想※ネタバレ注意

先日「OU」というゲームを遊びましたので、その感想を書いていこうと思います。遊んでから数日たってしまっているので記憶がちょっとおぼろげかもしれない、ご容赦ください。

ゲームの基本的な情報や購入はこちらから

なんと今だけリリースセールで15%オフ! Switch版もあるようです。私はSteamで購入しました。操作性はどちらでも不便はないと思います。

遊んでいる様子はこちら。

サムネがこれでも過去最高の可愛さに仕上げられたのでちょっとウキウキでした。


このゲームを遊んだきっかけ

いつものことながらSNSでどなたかがRT(今はRPらしいですね)されていたのを見て知りました。8月上旬か半ばころだったかな?
そこで得られた情報はキャラクターも背景も手書きっぽいことだけ。でもその柔らかな色遣いや線の集まりが気に入って、発売を心待ちにしておりました。

これはゲーム? いいえ、たぶんこれは、絵本の延長線上にあるなにか新しくて懐かしいもの。

操作性はSteam版でもSwitch版でもそう変わらないのではと書いたのは、単純に操作があまり発生しないから。横スクロールの短いマップを左右に歩くか走る。それから、気になった物に注目する。そして、忘れん坊な主人公が唯一持っていた「ふせん」を気になった物にえいやっと投げつける動作、このみっつだけ。アクション性を期待して遊ぶと「なんかちがう~」と思ってしまうかもしれません。

名前のない主人公と、彼(彼女?)を案内してくれるサリーの、基本ふたりぼっち。そんなふたりで小さな世界をいくつも渡り歩きます。たぶん、旅というほどのものでもない。絵本にはいろいろな形がありますが、その中でも横に長細く、膝の上に置いてページをめくるような装丁のものをイメージしてください。このゲームは、あれです。ページをめくる代わりにプレイヤーがやるのは、水たまりに飛び込む決意。絵本ですから、文章も登場します。それが「ふせん」によってさまざまな物体に付される説明です。

絵本の文章って、文字だけの小説やノンフィクションなんかとは違った特徴、、、味、、、? を持っていると思っています。まだ言葉の使用がおぼつかない人間にも理解できること、あるいはいつか理解できることへの期待を込められた、短文の、しかしながらぎゅっと意味が詰まった文章、、、という説明がしっくりくる、かな? 今私は絵のない絵本しか持っていないので、絵本特有の文章についての考えがとてつもなく甘いかもしれない。

ゲーム内の文章を紹介するのが手っ取り早いね。素敵な文章が多かったので、特に気に入ったものをメモに取っていました。例えば「人形」の説明として現れた文章の後半はこう。

名前は人形に人格を与え、別れは写真に命を吹き込む。

ゲーム「OU」のワンシーンから

この人形は後半にも重要なカギとして再度登場するのですが、姿かたち、意味が変われど「人形」に対する説明は変わりませんでした。そしてこのゲームに、少なくとも一周目には「写真」は登場しませんでした。近いものとしては「絵」が登場しますが、写真とは全く異なる役割を持っている様子。
つまり後半の「別れは写真に命を吹き込む」という一文によって、人形は命を持ちえないものであることが示唆されています。逆に写真には命が宿る。ただし「別れ」を通過する必要がありますが。「人格は命ではない」ということを示すための一文が「別れは写真に命を吹き込む」なのが秀逸。

このゲーム、というか物語の中に「命」が、そういえば、出ていていないかもしれません。いや主人公も彼を道案内するサリーもたぶん生きているんですけど、ううん、たぶんこの物語における「命」には「感情」がとても大きな要素を締めているように思います。となれば人形の命名という場面において感情を抱くのは人形の持ち主だ、人形には命は宿らない、そうだなあ、そうなのかなあ、そうじゃないかなあと一人納得したりしなかったりしています。

このゲームの感想は本当にゲームというより絵本の感想のようになりますね。なんかね、さっき人形が異なる役割を持って再登場すると言いましたが、なんとその時の人形にはどうも、感情、らしきものがある。涙を流すという形で感情がある「らしい」ことが示唆されます。私、あの人形のこと忘れらんないよ。人形が涙を流す原因を作るのはプレイヤーが操作する主人公で、私は一度、その原因になる行為を避けたんですよね。だけどそれじゃあ絵本のページがめくれない、物語を進めることができない様子。だから人形を泣かせて、涙でできた水たまりに飛び込んで次のページへ進みました。あそこが一番悲しかったかもしれない。それまでに主人公が一度もしなかった「決断」というものを強いられたのが初めてだったから。

ページをめくれど次へ進めど、どこへもいけないしなにもできない。

主人公は本当になにもしない。なにもできないのかなにもしないことを選んでいるのか、そもそもなにか行為をするような存在ではないのか、理由は定かではありませんが、付箋を投げたり、相棒のサリーに問われた時にだけちょっと決断したりするだけ。美しい背景に見惚れたり、優しい音楽に耳を傾けたりしているうちに気付くことがあります。プレイヤーである私はこの世界になにもできない、って。

絵本としてならこれは当然です。紙に落書きしたところでページを破ったところで、元あった物語の内容を変えることができません。どんなに楽しもうと、世界に干渉できない無力さがいつだって傍でちょこんと座っているはず。だけど「OU」はゲームで、絵本と違うのは「操作できる」「選択できる」ってところ。なのに私はサリーについて行くことしかできないし、しまいには「この世界もう壊しちゃわない?」なんていう提案を受けたりします。

壊すなんてそんな、ちょっと待って、私この世界のことたぶんまだなんもわかってない、そしてそれ以上に、なにもしてないし、どこにも行ってない。たくさんのページを水たまりを通じてめくってきたものの、いや、めくればめくるほど「なんか私、どこにも行けないんだな」という寂しい気持ちが湧いてくるからとても不思議なゲームです。

それはたぶん背景遠くの人がいなくなって随分経った後のような建物たちだったり、船が一艘も浮いていない海だったり、たくさん並んだお墓だったり、丁寧に丁寧に「この世界はこのあともずっとただ朽ちていくだけである」ことを描いているからかもしれません。「風の谷のナウシカ」の腐海を見ても、あんなにカラフルで物体に溢れているのに賑やかさのかけらもないかんじが似ているように思います。

そしてそれらの絵や、雰囲気をそっと支える音楽がとてもよいものでした。サントラも売ってる! 嬉しいね。


おわりに〜2周目の私はどこまで行けるか(※1周目エンディング以降のネタバレを含みます)〜

主人公はずっと裸足のまま小さな世界たちを旅していました。そしてそのことが寂しくて、あーなんかこのまま終わっちゃうのかな。寂しい話だったなあと思ったんです。絵本とか、童話とかってってそういう話多いしさ。

「どこにもいけない」「なにもできない」の無力感と共にエンドロールをボケーっと眺めていたら、上からね、靴が降ってきたんです。靴! それはただ足をさまざまな物から守るだけの道具じゃなくて、「これさえあれば今までできなかったことができる、たぶん、今まで行けなかったところへ行ける」ことの象徴です。靴があることにこんなに感動する日が来るなんて。降ってきた位置は主人公が最初に倒れていた場所。奥の橋に「これで終わり」と落書きがある、無力さの象徴の場所。

同じ場所を出発点として、靴を履いた主人公はどこまで行けるのか、プレイヤーはどこまで主人公を連れて行けるのか、ゲームに試されているかんじがします。ここからようやくこのゲームは「ゲーム」になるのかもしれない。ワクワクソワソワが止まらないね!

というわけで私はこれから靴を履いて行ってきます。裸足の歩みすら終えてないなら、まずはそこから始めましょう。

Steamなら、ここから。

Switchなら、こっちから!

いつでもどこでも読み始められます。静かで涼しい夜に、美味しい飲み物片手に遊ぶのがおすすめ!

そんなとこかな。じゃあまたね。

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