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17の夏、クモ膜下出血

事の発端は17の夏だった。
突然、友達から短文のLINEが届いた。
"りー〇〇のお母さんが倒れた 今すぐ病院に来て"
今でもこの時を思い出すと動悸が止まらなくなるし自分の中で時が止まる。
"倒れた?"
ドラマや映画じゃないんだからそんなバカな。

英語の授業中だった。
その後下に降りて職員室で家に電話をかけ、たしか父親に連絡をとった。
1年生の時の担任の先生が、しきりに背中をさすってくれていたのを覚えている。
私は起こっていることに理解が追いつかず、やや呆然としていた。絶対に泣くもんかと思い、強がって、平気なふりをしてもいた。 あの人、私の母なら大丈夫だ。無事。というかそんな簡単に人が死ぬわけなくね?とも思っていた。 
まさか死ぬとは思ってもいない、"死"がそんな自分の間近に潜んでいるとは想像も想定もしていない。 
というかおそらく"死"が何かも分かっていなかった。 今も分かっていないけれど。

車で病院へ向かう途中、運悪く道が混んでて父親が怒鳴り散らしていたのを覚えている。

結果、病院には別人がいた。
無数のチューブに繋がれて目を瞑っていたあれは、母ではない。
私の母は4年前ア〇〇のパートに出かけたままで、まだ帰ってきていない。

父、祖母、祖父ともに、一言で言うと皆パニック、いっぱいいっぱいだった。観たことない光景だった。

私は泣かなかった、というか泣けなかった。周りの状況がいつもと違い過ぎて、戸惑って、涙がひっこんでいた。
少し記憶が曖昧だからもしかしたら泣いていたかもしれないけど、事の重大さに対して涙の量は少ない。
いくら泣いても泣き足りない。

倒れてから3日後の早朝、母は亡くなった。1晩中病院にいた父から電話が入って、祖父母の家にいた私と弟は急いで病院に向かった。
行きのことはよく覚えていないけれど、救急治療室に着いて母のベッドまで全力で走ったことだけは覚えている。

その後、帰りの車で弟が泣いていた。
助手席で体が床にずり落ち手だけ助手席にのせ、ギャーギャー泣いていた。私も泣いていた。
記憶の限りこれ以降、弟が泣いているところは見たことがない。
あと、この時17年間生きてきて初めて父が泣いているところを見た。

葬儀屋も、泣いていた。

今でもiPhoneの着信音は当時のことを思い出してしまうから嫌いだ。必ず間抜けなBGMに設定している。

その後、母が家に来た。
正確に言うと、箱に入って運ばれてきた。
数日前まで元気だった人が、今は箱の中に入っている。冷たい。動かない。喋らない。目が開かない。
唐突に、人が物に変わってしまった。
誰の許可も得ず、勝手に唐突に。

それが本当に、本当に怖くて、そんな自分が嫌だった。
見方を変えれば母親との最期の別れなのに、 素直に別れを悲しむことのできない自分が嫌だった。
よく観る映画やドラマのシーンのように、遺体を前に泣きじゃくることはできない。というかまだ母が死んだとは思っていなかった。思えなかった。思いたくもなかった。理解が追いついていなかった。
でもあれは、私の母ではない。
やはり私の母は4年前パートに行ったきり、帰ってきていない。




よく、数年前母を亡くしたというと、ええ大変だったね。。とか言われるけど、別にそんなに大変ではなかった。
なぜなら私はまだ、母が死んだとは思っていない。理解が追いついていない。思いたくもない。
もしかしたらあえて、理解しないようにしているのかもしれない。

私の母はまだ、どこかで生きている。






あと、この時代に偶然私の周りに居合わせた人々、高校の友達は、本当に温かかった。たぶんそのおかげで今生きれている。
この時代当時も、少し後に話した時も。
もしも逆の立場だったら、私はちゃんとできただろうか。

                                         


いつかの下書き。
この時の経緯とか気持ちはまだあまり話したことがないし外へ出したことがなくて、ただいつかまとめて出してみようとは思っていた。

ただ出す目的はまだ自分の中でもはっきりしていない、
もしかしたら"そんなことがあったのか大変だったね"と言ってほしい、いわば同情されたいのかもしれないし、あるいは未だに自分の中で整理ができていなくてとりあえず外へ出しておきたいだけなのかもしれないけれど、まあとにかく出してみようと思う。
ここまで読んでくれた人はいるのかな🙄笑



#夏   #17 #クモ膜下 #母

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