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女性活躍×女性の健康の創業のきっかけ前編(うらみつらみ)

もうこれは過去の事であり、現在の私とはあまり関係ないのでささっと書こうと思う。あくまで当時の心境描写、として読んでほしい。


生理痛との付き合い


小学校5年生で始まった生理。当時は中学受験真っ最中だったのだが、痛みで泣きながら勉強をしていた。親は子供に鎮痛剤を飲ませるのをためらったのだろう。どうしようもない時だけ、薬を一錠飲むことが出来た。


中高生。保健室で休ませてほしかったが、生理痛は病気じゃないとの理由で真っ青な顔で体育に参加しダンスを踊っていた。体育館への移動前後、痛みでうずくまりながら歩く私に、何人もの先生が声をかけてきたが「生理で、、、」というと「あ、なら大丈夫ね」と言って去って行った。


大学受験。生理と重なり吐きながらテストを受けた。終わった後は、寒さと緊張と痛みで新宿駅のトイレから出れなくなった。掃除のおばさんが、「あーもう!!いつまで入ってるのよ!!掃除できないじゃない!!」と外で叫んでいた。涙が出てきた。


新社会人。当時は自転車営業をしてたが、過多月経でスーツを汚してしまった。当時アポをキャンセルする才覚もなかった私は、カバンで必死に汚れを隠しながら立って商談を行った。


23歳。初めての産婦人科。左右に7.8センチのチョコレート嚢腫が見つかり、産婦人科デビューで手術が決定。術後、子宮筋腫と子宮内膜症と子宮腺筋症と言われた。以後、私は現在までに合計4回手術を受けることとなる。


時は流れて37歳。第二子不妊治療中。この一年で、もともと坂道を下るように悪化していた生理痛が、さらに更に悪化していた。もう、24時間365日痛い。生理痛なのか生理痛じゃないのかわからない。ロキソニンを震える手で中毒患者の様に飲み続けた。飲み続けないと会社に行けないから、就寝中も枕元に薬を置いて、目覚ましをかけ飲んでいた。

何度も何度もネットで調べたが、「生理痛は病気のサインかも」という記事ばかりで、病気で死にかけている人がどうすればいいか、という記事はどこにもなかった。


大学病院の診察室


最後の採卵&移植(不妊治療)に向けて何か出来ることはないか、そう考えた私は、大学病院の診察室にいた。が、言われたことを簡単に受け入れることは出来なかった。

子宮腺筋症の人は妊娠しにくい。
妊娠できたとしても、流産・早産率は70%(通院していた病院のデータ)

当時の私は、既に一人いるのだから二人目を不妊治療で作るのは、子供一人で我慢できない自分の我儘とどこかで感じていた。

私は、二人目が欲しいという自分のエゴをかなえる為にまだ見ぬ我が子の命を危険にさらしていたのか。

エゴで命を作って、その命を自分の無知によって死の危険にさらそうと、そんな恐ろしいことをしようとしていたのか。

あの時の衝撃は、忘れることが出来ないと思う。


怒涛の如く噴き出す産婦人科医への怒り


これまで接してきた産婦人科医への怒りが怒涛の如く押し寄せてきた。

私は将来の妊娠に不安があったため、初めての手術の後、半年に一回は必ず検診を受けに産婦人科に通い続けていた。転居や転職で何度か病院を変え、そのたびに総合病院、町クリニック、様々な医師の診察を受けてきた。


「先生、本当に痛くて痛くてどうしようもないんです。何とかなりませんか」

「ん~、内膜症だからね。まあ仕方がないよ。」


驚くほどに、どの産婦人科医も同じ反応だった。たまに、漢方を渡された。誰も、不妊の可能性が高い事について教えてくれなかった。誰一人として、ピルを勧めてくれなかった。異常がない→検診終了。問題は何も解決されない。正直、「こいつらの存在価値は一体何なんだ」と思っていた。


そして第二子の為に、都内の有名不妊治療クリニックに通う様になった。

「先生、私は内膜症も腺筋症もあるので、体外受精にステップアップしたいです」

「あなたはまだ若いし、絶対に妊娠出来るから。私は内膜症にも詳しいし、今はまだ人工授精で大丈夫」

「私の様な病気の患者に、何かリスクはありますか?」

「特にありません」

あの時の会話のやり取りが何度も思い出される。不妊治療したいと言ったら「ただ」するだけ?流産しても早産になっても、関係ない?

私の体はエストロゲンに過敏だったようだ。そのころには、排卵誘発剤の影響をうけ、もう会社に行けないほどに痛みがひどくなっていた。

私は、会社を辞めた。


産婦人科医に任せておけない。こんなこと、もう誰にも起こってほしくない。私が立ち上がらなければ。

そういった怒りが、リプロキャリアの創業に繋がった。







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