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万津人0001:本田将治

ここで生まれて、ここで育って、今も住んでいる。

生い立ちって言うのは、どんな言えばいいんですかね。ちょっと待ってくださいね。生い立ちなんて言えるほどの……。これ、私が結婚したときにパンフレット作ったんですよ。私のいとこが書いてくれたんですけどね。古いなぁ、わたし33で結婚したんで、ここに経歴はあります。

ここは昔1番地、今は1の2ですけどね、前は万津町1番地だったんです。ここで生まれて、ここで育って、今も住んでいる……まあ、非常に幸運なケースですよね。この辺は、空襲で焼け残ったんですよ。中心は全部やられたんですけど、たまたま焼け残って、それで住み続けられたんですけどね。

この家は、一応出来てから100年ぐらい経つんです。私の祖父がここに越してきたんですけどね、ここの埋め立てが始まって間もない頃に。そもそもは、親和銀行本店ありますよね、島瀬町のあそこ。あそこに住んでたそうです。船関係の仕事が増えたからだとは思うんですけどね、やっぱり港の近くがいいっていうことで引っ越してきたんですね。で、その頃から港に関わるというか、船っていうかな、そういうものの商売をずっとしてきているんです。 

学校は近くで、戸尾小学校っていう、今も建物が残ってますけど、学校自体はもう無いんですよ。で、中学校は旭中学校っていうとこなんですけど、そこも合併して無くなった。花園っていうところと一緒になって、祇園中学校になってんですよね。小学校も祇園小学校になって、合併して。私の幼稚園もなくなって……私の行った学校は次々に無くなるなぁ(笑)。

中学、高校って、バスケットボールしてたんです。あの頃、佐世保北高には満足な体育館も無くてね。バスケットの一面取れる体育館もなくて、それで他の部と共有するわけですよ。だから、ものすごい入り乱れて使ってる状態でね。満足に練習できないまま、そのせいって言ってはいけないんですけど、あんまり強くはなくて。でも、高校の時の思い出っていったらもう、そういう風なクラブ活動しかないですね。あの頃はよう勉強したとかいう思い出はなく、映画に行ったっていうのと、バスケットボールに熱中していたっていうのと、それくらいしかないですもんね。

映画との出会い、大学での洗礼。

映画を本格的に見るようになったのは中学で。中学の時の同級生で、すっごい映画好きな人が居て、その人の影響を受けたっていうのかな。今でも感謝しているんですよ、その人に手ほどきを受けたっていうか。映画館があの頃20館ぐらいはありまして、今ではそういう呼び方は無いんですけど、1番館、2番館、3番館……っていうのがあって、1回やって、大体は1週間ぐらいで終わるでしょ。そうするとね、何ヶ月か経つと、2番館っていうところでまたやって、その次は3番館、ってどんどん安くなって(笑)。だから見逃したやつでも、カバーできたわけですよね。「あれ面白かったよ」って言われて、「あー見れば良かった」と思ってると、そんなしてやってくるから、昔はビデオももちろん無いから、1回見逃したらもうだめだったんだけど、カバーできるチャンスがあった。

映画状況としては非常に恵まれて、今になって思えば洋画なんか、よその町より早いって言われてたんですよ。僕ら、それ普通だと思ってたんですけどね、すごく恵まれていたわけですね。洋画もたくさんあるんですけど、基地の兵隊さんたちが見に来るでしょう? アメリカ映画のね、僕らのよくわからないとこで笑うわけですよ。「これなんでここで笑うのかな?」って。それはもう何十年も経ってから、「そうだったのか」って気づいたりね。

大学は1年浪人して京都の大学に入って、(映画の)研究会に入ったんですよ。他に好きなものもないし、ここ行ったら友達が出来るかも知れないと思って。そこで、ものすごい洗礼を受けたというかな。ただ好きだから見るっていう、いわゆる単なる映画ファンだったと思うんですけどね。それだけじゃだめだと言うことを、ものすごく教育されたんですよ。徹底的にやられたっていうかな。

京都は大学が非常に密集していますよね。各大学にやっぱり映画のクラブがあるわけですよ。で、そういうのが集まって、また1つのグループを作って、代表者出して、そこで映画の発表会みたいなのがあって、それで揉まれたんですよ。各大学から出てきて、それでやり合うわけです。そのときに僕らただの映画ファンっていうそういう観点からしかなかったんですけど、「違う。映画ってのはそういうもんじゃないんだ」みたいなことを、「現実と映画との関わりっていうのはどうあるべきか」なんていうことを、すごくやり合うんですよ。そういうところを見たことがなかったんで、すごい刺激を受けたんです。

新旧さまざまな映画のコレクションが。昔の映画はタイトルが本田さんの手でレタリングされており、映画愛の深さがうかがえる。

随分、本読んだりして勉強したんですけど、それが映画に対する方向を決めたかなって思いますね。映画ってのは、今、目の前に1本あったら、その1本がポツンポツンとあるわけじゃなくて、映画の歴史に、わーっとつながっているって訳ですね。例えば、この映画だと、この監督はこの前にどういうのを作ってたとか。そういう大きな流れの中で、その1本も考えるとか、そういうことも教わったんですね。そういう観点で今でも、「この絵がどこにつながってるのかな」とか、思ったりしますよ。発見できたら、それはすごく嬉しいですよ。何の役に立つわけでもないけど(笑)。

給料は、映画と本で消えた。

大学を出た後は就職して、1年は北九州の八幡に居たんですけど、八幡では使い物にならんかったみたいで、それで東京に転勤になったんです。東京には4年間いて、もう、めちゃくちゃ映画見たんですよ(笑)。何十って映画館があって、自分の見たい映画がどっかで必ずやっているって状況でしたね。毎日行っても間に合わないぐらい。あの頃、年間に200本もいくらも映画を見た時代ですけど、自分の生涯でもあんなに見た時代は無いっていうぐらい、自分の給料は映画と本でほとんど消えてました。

ちょうど東京オリンピック、1964年の東京オリンピックの頃だったんですよ。だから東京が変わっていくのも見たんですね。あの頃東京も、まだ昔の名残がいっぱいあちこちあったんですけど、そういうのが次々無くなって。今になってもっと、江戸の名残なんかを見とけば良かったと思うんですけど、その頃はもう映画に夢中で、映画しか興味が無かったんですよね。だから、ほとんど役に立たないサラリーマンだったんですよ(笑)。お酒もあまり飲まないんですよね。だから、同僚と連れ立って飲み屋行ったりってこともあんまり無くて、麻雀はしないでしょ。だから「あの人は誘ってもだめよ」ってなるわけですよね、飲みに。だから、東京におらせてもらっただけでありがたいなと思ってですね。

悪いことに会社の歩いてすぐそばに近代美術館があって、そこで「フィルムライブラリー」っていうのがあって、昔の映画とかを絶えずやっているんですけど、なかなかサボってまではいけなかった。どうしても行きたい時は、美術館に潜り込んで映画を見てですね(笑)。その頃はまあロードショーで1本350円ぐらいじゃなかったかな、そんなもんでしょ。安いところはもっと安かったですからね。この「アラビアのロレンス」で500円ですよ。

で、会社が倒産して、とりあえず長崎の親類の家を手伝ったんですよ。佐世保に帰ってきたのはエンプラ闘争があった年だから、1968年ですね。それからはずっとここにいます。長崎、佐世保にもいっぱい単館の映画館があった。長崎にもまあまあ映画館あって、長崎でも随分見て、博多まで見に行ったりもしてましたね。その頃は夜行の普通列車があって、朝一で長崎に帰って来れるわけで。その汽車はだいぶ利用しましたね。

映画好きが高じ、市民団体のミニコミ誌で連載してきた200本もの映画コラムを、2021年に一冊にまとめて自費出版した本「シネマ万津座」。

帰郷して就いた、外国船相手の仕事。

下の会社は、戦前は「本田商会」っていう会社で、祖父が始めたんですけど、戦争中、佐世保の船具屋さんは全部一つの会社に統合させられまして、「佐世保船用品」っていう会社になったんです。で、戦争が終わった時に元の自分たちの会社に帰って行ったんですけど、その時から「第一機工」という船具屋さんに、本田家が貸しているんです。株主でもありますし。船具屋のイメージはもう本田商会にはないですね。

本田さんのお住まいの一階は「第一機工船具」で、所狭しと船用品が並ぶ

父が社長になって、私が長崎からこっちに帰ってきた時に、私はその第一機工には行かずに、外国向けの商売をしてる佐世保船用品に行ったんです。外国向けの商売は、非常に独特の商売なんですよね。外国の船が、SSK(佐世保重工業)なんかに修理とかで入ってくるでしょ。その頃は30人も40人も乗組員がいて、ペルシャ湾なんかで石油を運んだりすると何ヶ月も船の上で暮らすわけですよね。そうすると、日常生活するわけですから、いろんな物がいるでしょう。日用品から機械の部品から消耗品からを納めるんですよ。注文をもらってそれを納めるっていう、非常に面白い仕事でしたね。

向こうが要求した物をその船が出て行くまでにきちんと納めさえすれば良いわけですから、あんまり気を遣わないんですよ、どっちも片言英語でね。商品の名前さえ覚えてしまえば、そんな難しくないですね。1回限りの商売ですよ。もう2度と会わないって感じですよね。キャプテンにしても何にしてもね。それでも商売がなかなか難しくなってきて、外国船向けだけではどうにもならないということになって、佐世保船用品というのを畳んで、下の第一機工と合併をしたんです。私がその時の従業員さんを、全部、下で雇ってもらって、それがもう10年前なのかな。下の株主ではあるけど、「やれやれ」と仕事は辞めて(笑)、今は全くタッチしてません。

海と関わりの深い港町、万津町に暮らして。

万津町自体、こういう海に関係する仕事っていうのが、今よりものすごく多くて。万津町って言うのは、海から来る人を迎えて、海に出て行く人を見送るっていう。そういうので暮らしを立ててきたんですね。だから海運会社とか、船具屋さんとか、港湾組合とか、そういう海に関する会社とか団体、そういうのが非常に多かったですね。今はもう、ずいぶん減りましたけどね。そういう意味では海に関わっている度合いが高い町というか。 

向こうに出て行くまではこの辺が特殊な町って言うか、そういう特色のある町って言うことはあんまり意識してなかったような気がしますね。普通だと思ってたから。一度出て、帰ってきてからじゃないですかね。そういうのに気づいたのは。

海に関する仕事に携わって、とにかく変わってるなーと思ったのは、隣が塩浜町でいわゆる繁華街ですよね、飲み屋さんがいっぱいあって。でもこの町には飲み屋さんが一軒も無いって感じだったんですね。パチンコ屋さんも無い。夜はもう、シーンって静かで、いいですよね。

漁船の人たちなんかは朝早いですよ。荷物をもう早朝に持ってきて。朝市っていうのも、そもそも道路で生産者が道端で売って、ここの前の道なんか、すごかったんですよ。そこの岸辺にもずっとお店が出ていて。今では随分、趣向が変わっていますけどね。

昔はやっぱり玄関口だったわけで、佐世保の港ってのは、海の人に言わせると、非常に魅力的らしいんですよ。私はずっと、その海の港の魅力って言うのを、十分に活かしていないんじゃないかなっていう気がしているんですけどね。もっと、あの、なんていうか、例えば、神戸とか横須賀とか、長崎もそうですけど、港町の独特のロマンっていうのがありますよね。で、そういうのをもっと活かせるんじゃないかと思うんですけど、それが少ないなっていう風にずっと思ってきたんですよ。

本田さんが案内してくれた「恵比寿神社」の恵比寿様は、古くから漁業の神として祀られる。

もともと万津町っていうのは、あんまり佐世保市民が足を踏み入れる町ではなかったんですね。離島に行くとか、そういうことが無い限りはあんまり用事が無い町なんです。「津」っていうのは、入江っていう意味ですよね。だから、「たくさんの入江がある」っていう、それで「万津」だと思うんですけど、そういう町の魅力を十分に生かし切れてないところがあったんで、もう少し港を活用するというか、一般の人がそのウォーターフロントに足を運ぶようなものがもっとあれば、もっと魅力的な町になったんだろうなと思うんですよね。で、それはひとつにはやっぱり米軍とか自衛隊とか、まあ、そういう制限があるんで、しょうがないことなんですけど、それと折り合いをつけながらもう少し活用の仕方があったんじゃないかなって、今も思ってんですけどね。

これからの万津町。

今後、この近辺はどんな風に変わっていくのか……まだ変わる余地はあるのかな。どうなんですかね。若い人向けのお店が増えてきたってことは確かですね。自治会の活動としては担い手がだんだんいなくなってきているのも確かです。私がここの自治会として関わっていた頃は担い手が多く居て、それなりに楽しくやっていたんですよね。何カ所もマンションが出来てくると、どこの人か良く分からない人が住んでいるということになりますよね。そうなると町の雰囲気が変わってくると言いますか。

昔は町単位でいろんな行事をやって、楽しいことをいっぱいやっていたような気がしますね。それだけの余地があったのかな。人もたくさんいたんですよね。担い手がいなくて、これからどうするのかなって言う心配はあるんですけどね。万津の公会堂が、ひとつのきっかけになればと思うんですけど、まだ活用の仕方っていうのが良く分からない状況ですよね。「万津6区」さんと、もっとつながっていければいいんですよね。


取材・文:井手 祥子(長崎県立大学)
写真:永田 崚(tajuramozoph)
編集:はしもとゆうき(kumam)

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