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可否茶館

 ビリヤードはいつ、どんな施設に置かれていたのか、どんな人たちと関わりがあったのか。ビリヤードをキーワードに、古い文献などを読み集めてまとめたのが、この『玉突の記憶を巡る』です。

 第1回は、4月13日の記念日「カフェの日」にちなみ、明治の日本で開業された『可否茶館』というカフェと、そこに置かれていたビリヤードの話です。


日本人初のカフェ

 1888年4月(明治21年)、東京下谷西黒門町にカフェ「可否茶館」(かひちゃさん、かひさかんなど読み方に諸説あり)が開業しました。

 可否茶館は日本初のカフェと紹介されることもありますが、可否茶館が開業するよりも前にも日本国内にカフェは存在していました。可否茶館が有名なのは、日本人の手によってはじめて本格的なカフェが開業されたためではないでしょうか。

 可否茶館よりも古い時代にもカフェは日本国内に存在しました。それらのカフェは横浜外国人居留地内で営業していたのです。

 スイスの外交官で1863年(文久3年)に遣日使節として日本へ訪れたエメ・アンベール・ドローは、著書『描かれた日本』の中で「フランス式のカフェ」と記しています。残念ながら店名は不明です。

 横浜開港資料館が編纂した『横浜もののはじめ考』には翌1864年3月(文久4年1月)に開業したアリエ・カフェが紹介されていおり、これが日本で最古のカフェだと記されています。

 エメ・アンベール・ドローが日瑞修好通商条約を調印したのは1864年2月6日(文久3年12月29日)ですから、帰国の準備を行っている際に、まだ開業したばかりのアリエ・カフェに立ち寄った可能性は十分に考えられます。

 さらに同年、グラン・カフェ・デュ・ジャポンというカフェも開店しています。沢 護さんの研究によれば、横浜外国人居留地内のカフェでビリヤードをして遊ぶことが定着したのもこの頃だとしています。

 幕末になると幕命によって日本人が海外へ留学するようになるのですが、彼らの日記を追いかけてみると海外のカフェでビリヤードを遊んでいる記録が残されています。すでに海外では1860年代にはカフェとビリヤードという組み合わせは珍しいものではなくなっていたのでしょう。

 明治初期のカフェについては、星田 宏司さんの著書『日本最初の喫茶店『可否茶館』の歴史』が詳しいです。可否茶館が開業するよりも前に存在していたカフェとして御安見所コーヒー茶館、放香堂、コーヒーの店洗愁亭の名が挙げてられています。

明治九年四月七日の「東京絵入新聞」に報道された浅草の『御安見所コーヒー茶館』、明治一一年一二月二六日の「読売新聞」に広告を出した神戸元町の茶商『放香堂』、明治一九年一一月、東京日本橋に開店した『コーヒーの店洗愁亭』など(以下略)

出典:『日本最初の喫茶店 『可否茶館』の歴史』

 放香堂はおそらく北 儀右衛門が元町3丁目に開業した加賀九谷焼を扱う陶器買込商のことでしょう。のちに雑貨輸出と茶小買を行うようになりました。北 熊吉の代になると茶商に専念し、コーヒーや紅茶を扱うようになりました。

 こうして俯瞰して見ると、日本にはかなり早い時期からカフェ文化が上陸していたということがわかります。

唐通事の家系

 可否茶館を開業したのは鄭 永慶(てい えいけい)という人物です。まれに中国人であると誤認されることもあるようですが、長崎県出身で唐通事の家系に生まれた日本人です。

 唐通事は日本が鎖国体制を採っていた時代に置かれた職業のひとつで、主に中国語を翻訳することを任された地役人のことを指します。

 そのため鄭家は代々から語学に明るい家系であり、永慶も例外ではありませんでした。中国語のほか、フランス語、英語を習得し、「語学の天才少年」と呼ばれるほど、複数の言語を使いこなしていました。

 永慶は京都仏大学に学び、1874年(明治7年)には清国公使を務めた父の永寧に連れられ、兄の永昌と共にアメリカへ留学、イェール大学に進みました。教え子の秋山 定輔によれば、永慶は養子だったそうですが、このように、兄の永昌や弟の永邦とは分け隔てなく育てられたそうです。

 永慶には弟がおり、名を永邦と言います。この永邦も語学に明るく、伊藤博文の通訳を務めた経験もあります。永邦は同じく唐通事の家系に生まれた呉 大五郎と共著で『日漢英語言合璧』という本を1888年12月(明治21年)に出版しました。この本を発行したのは永慶で、可否茶館で販売されました。販売元は可否茶館のほか、丸善商社書店が名を連ねています。

 このように公務に就くことも多かった鄭一家は、鎖国時代から続くエリートの家系だったと言うことができます。

なぜ「可否」なのか

 語学に明るい家系で育ち、海外留学まで経験したほどの永慶が、なぜ屋号に「カフェ」という文字を使うことをせずに、わざわざ字を当てて「可否」としたのでしょうか。

 その理由について、秋山 定輔は次のように振り返っています。

家號は『可否茶館』と名付けた。これが東京に於ける所謂カフエーの一番最初に現はたものだつた。内容は支那の茶館と西洋のカフエーとの合の子みたいなものだつたが、カフエーと云ふ言葉も當時としては餘り露骨だと云ふところから音が似てゐるので、それをもぢつて可否茶館と號したのだつた。

出典:『秋山定輔は語る』

 どうやら当時の日本ではまだ「カフェ」という言葉は、「外国かぶれ」とでも表現すればよいのか、鼻につくとでもいうのか、まだ日本人が利用するには馴染みにくいという世相だったのだと考えることができそうです。

 それにしても「カフェ」を「可否」と表現したのは、なかなかユニークな発想だと思います。この理由について、中村 舜二は別の理由があることについても言及しています。

カフエーをもぢつて『可否茶館』と命名し、成効するかそれとも失敗に終るか可否何れとも予め判明し難いといった意味を含蓄

出典:『大東京』

 「カフェ」のほかに「可否」という意味を含ませていたというのは、おそらくカフェ文化がまだ根付いていない日本で、その文化を馴染ませることができるだろうか、失敗してしまうかもしれない、という永慶の不安混じりの心境をも反映したもののようです。

庶民のサロンを目指して

 21世紀の日本でも、コーヒーを一杯でも注文すれば、あとは長い時間、そして好きなだけ、店内でくつろぐことができるカフェが増えました。

 カフェに来る人々を観察してみると、店内で読書をしたり、学校の勉強をしたり、スマートフォンやラップトップなどの携帯可能なデバイスを持ち込んでインターネット・サーフィンをしたり、仕事をしたり、何かしらの作業に打ち込む人たちの姿を見かけることができます。また、商談や面接などをするサラリーマンも見かけることができます。

 明治時代のカフェも同じように、店内で好きなだけくつろぐことができたようです。ただ、21世紀のカフェと少し異なる点があるとすれば、ひとりで何かを行うのではなく、同好の士が集まる社交場、つまりサロンとしての役割を担っていたということです。海外のカフェはサロンとしての機能を持っていたのですが、その外国文化を踏襲したのが可否茶館ということができます。

 可否茶館の開業2日後に発行された『郵便報知』では、可否茶館を次のように紹介しました。

 途中にてちょっと立ち寄り休息し、または知人談話の席に用ゆる等、軽便にして卑しからぬ西洋の珈琲店のような場所あらば、身元ある人々には無上のタヨリになるべく、この類いの場所なきは誠に物足らぬ心地すと、常に嘆ずる所なりしに、このたび下谷黒門町二番地警察署隣に新設する可否茶館と云えるは、この闕点を補うべきものなり。いっさいの様子すべて西洋の珈琲店に倣い、来客は茶を喫し、珈琲を啜りながら気安く休息し談話するを得るべく、室内には諸新聞諸戯具を備え、更衣室、文房等の部屋部屋さえ別に拵らえあり。すこぶる体裁宜しと云う。

出典:『郵便報知』(明治21年4月15日)

 この紹介文を読むと、可否茶館がサロンとして「お客様満足度」を向上させるため、かなり腐心したことが伝わってきます。

鹿鳴館に対する反骨心

 永慶がこれほどまでに「お客様満足度」の向上に腐心した背景には、上流階級のみに開かれたサロン「鹿鳴館」に対する猛烈な反骨心がありました。

 寺下 辰夫さんは著書『珈琲ものがたり』の中で、永慶が鹿鳴館に対してどのような思いを描き、反骨心を抱いたのか、永慶が兄の永昌に対して語る場面を紹介しています。

 寺下 辰夫さんの祖父である川口 大八郎は、晩年に大隈 重信の顧問となり、漢学や書道を指導する立場を任された人物でした。永慶とその兄弟もまた、川口 大八郎の生徒です。

 その川口 大八郎の娘であり、寺下 辰夫の母に当たる人物が親戚筋に聞いた話、そして親族の楊 竜太郎さんが永昌に聞いた話が、「鹿鳴館に対する反骨心」の根拠として『珈琲ものがたり』に記載されています。

 永慶が喫茶店みたいな道楽商売をおっぱじめたことも、彼には彼の夢があったようだ。永慶がいうのには、──いまにごらんよ、あんなろくでもない鹿鳴館が栄えるもんか。いかに大きな社交殿堂といっても、国民のために何の役に立つというんだ。なんでもかんでも、うわべばかりの毛唐の真似をしても、ほんとうの西洋文化のよさを識ってはいないのだ。
 僕らは、一応、エール大学に通ってみて、新興国アメリカの成長してゆく姿も見たし、おぼろげながら、”デモクラシー“もわかったと思うが、あの鹿鳴館でランチキ騒ぎをしている大半の連中は、テンデ、西欧の文明文化なんてものはわかってないではないか。僕が建てた『可否茶館』のほうが、どのくらい世の中の人の憩いの場所になるかもしれんよ。──と、大いに自慢したものだ。(原文ママ)

出典:『珈琲ものがたり』

 1882年(明治15年)に帰朝し東京へ戻ってきた永慶は、翌1883年(明治16年)に開業した鹿鳴館というサロンを、留学者からの視点で興味深く観察していたのだと思います。そして、鹿鳴館に集う人々が多くのスキャンダルを起こし、凋落していく姿を見ながら、御上の考えるサロンという理想形に、懐疑の念を抱くようになったのではないでしょうか。

 「自分が見聞してきたサロンは、御上の考えたような、上っ面だけを真似したものとは違うのだ」という永慶の気持ちが、兄の永昌が語った言葉の中に表れているように感じられます。

可否茶館の設備とメニュー

 可否茶館はサロンとしての社交場を意識しているだけあって、かなり充実した設備を取り揃えていました。さらに別室として更衣室、文房室があり、文房室には、筆や硯、封筒などが常備されていました。

 夏場にはシャワー室を利用することもできました。その上、冷を取るための氷も用意していたという手厚さです。また、国内外の新聞や雑誌が縦覧できるのはもちろんのこと、和・漢・洋の書籍、書画も備えつけてありました。

 そのほか、娯楽設備としてトランプ・碁・将棋・ビリヤードなど室内遊具や、室外遊戯のためにクリケットを楽しめるほどの広さがある庭園も準備されていました。

 充実していたのは設備だけではありません。コーヒーを含め、多くのメニューを用意し、お客様をもてなすことに重きを置いていました。

可否茶館のメニュー再現

 可否茶館のメニューは卓上にあったのか、それとも壁に貼りだしてあったのかは定かではありませんが、『可否茶館広告』、勝本 清一郎さんの随筆、星田 宏司さんの著書に登場する品目をそれぞれから拾い、メニューとしてまとめてみました。品目は判明していても値段が不明なままのものもあります。

コーヒー

一杯 一銭五厘
牛乳入り 二銭
菓子付き 三銭

軽食

パン(バターあります)
カステラ
一品料理

お酒

ベルモット 二銭五厘
ブランデー 三銭
葡萄酒 二銭七厘
ストックビール(小瓶) 十五銭

煙草

鹿印(二十本) 二銭
キューバ
マニラ

 メニューがここまで充実していると、もはやバーに近い業態だったのかもしれません。しかし、永慶が見聞した当時のカフェは、このようなスタイルだったのではないでしょうか。それを裏付けることができそうな、とても興味深いカフェを紹介しましょう。

可否茶館に集まった人々

 可否茶館に集まったのは、主に文士たちだったようです。文士の中でも有名なのが石橋 思案です。経営者の永慶が長崎出身だったこともあり、同郷出身の石橋 思案とは馬が合ったことは、いくつかも文献で紹介されています。

 石橋 思案は、尾崎 紅葉・山田 美妙・丸岡 九華の四名で「硯友社」を結社した人物です。硯友社は同人誌の嚆矢とも言われている『我楽多文庫』を発刊していたグループです。

 『我楽多文庫』には可否茶館の開業広告も掲載されていますが、その文を書いたのが、ほかならぬ石橋 思案です。まるで石橋思案の思い入れが伝わってくるようです。

 石橋思案は開業広告で可否茶館のことを「西洋御待合所」と紹介しましたが、永慶がカフェを「可否」と表現したように、同じく「サロン」という言葉も当時は理解されにくく、平易な言葉に置き換えたのではないでしょうか。

 石橋 思案は可否茶館を待合所と表現しましたが、ただ単に人々が待合だけに使うような場所に留めるつもりはこれっぽっちもなかったようです。自らイベントを開催し、積極的に人を集める努力もしているからです。 

 思案はこの可否茶館を会場にして東京金蘭会と称する男女交際会の会合をしばしば催した。その会では当時の帝大生たちが流行の清楽合奏などしたが、主催者の思案もまだ二十歳代の学生だった。

出典:『日本の名随筆 別巻三 珈琲』

 硯友社がライバル視をしていた「根岸党」の面々も可否茶館へ集っていたようです。根岸党は商業指向の硯友社に比べると、同好会のような気楽なグループでした。数人の仲間でつるんで遊ぶような、仲間だけで構成された一党という色が濃かったようです。

 根岸党には幸田 露伴を筆頭に、秋山 定輔、平田 禿木、友平 親教などがいました。このうち、友平はまわりも認めるプレイボーイで、一橋に高等女学校ができると早くも生徒の女性と付き合いをもち、さらに女友達も連れて、可否茶館で『忠臣蔵』の芝居を披露したそうです。このときの様子を平田 禿木は自身の随筆で振り返っています。 

鹿鳴館の舞踏とか、不忍池の競馬とか、欧米主義の盛んな時代で、初めて一つ橋へ高等女学校ができたのもその頃だつたが、中学生の友平はもう、その女学生のお嬢さん達ともつきあつてゐた。
 そのお嬢さん達を主賓として、英語の芝居をやったのも彼で、自分と加福〔力太郎〕といふ男がその片棒をかつがされた。出し物は和田恒博士訳の忠臣蔵七段目であったが、勘平の役は勿論彼奴が買つて出た。場所はお成道の奥まつた横町へ、北京公使館の書記官であった鄭某氏が出してゐた、日本最初の喫茶館の楼上で(以下略)

出典:『禿木随筆』

 このような芝居を行われることがあったのは、やはりサロンとしての機能以上の魅力が可否茶館にはあったのだろうと推測されます。

新築された玉突室とその様子

 可否茶館にはビリヤード・テーブルが置かれたことはすでに述べましたが、この「玉突場」は開店当初には備えつけられていませんでした。玉突場が開店後に追加されたことを示すのが、開店翌月となる1888年5月(明治21年)の中旬以降に発行された『団団珍聞』と『我楽多文庫』へ書かれた広告文です。

御客様方の御便利御重實をはからばやと新に玉突室をも新築せんと最早普請にかゝる奮発も皆御客様方の御便利専に一追々(以下略)

出典:『団団珍聞』(明治21年5月12日)

 (六)玉突場ハ昨今普請に取り掛り居候間来月初めにハ全く落成乃都合な有之候(以下略)

出典:『我楽多文庫』(明治21年5月25日)

 せっかく新設したビリヤードなのですが、どうやらプレイ料金を取らなかったようであることが星田 宏司さんの本に書かれています。永慶は、ビリヤードを社交ツールとして使うことを重視するあまり、料金を取らなかったのかもしれませんが、この商売っ気のなさがアダとなっていきます。

金策に苦心する永慶

 新築された部屋は玉突室のほか、シャワー室などもあり、これだけでもかなりの投資額になると思いますが、じつは可否茶館の母屋も新築です。なぜすべての施設を新築で建てたのでしょうか。じつは、可否茶館を開業する前年、この土地にあったはずの実家は焼失してしまったためです。ですから、永慶は金策だけでも相当に苦労をしています。仕事を辞めてしまって収入が途絶えたことも大きいでしょう。

家庭に於てかういふ不幸が重なってゐる時に、一方では先生は大蔵の役人を止したので、僅か乍らもあつた収入は杜絶してしまつた。親と云つても謂はば義理の両親である。其の上鄭家は名家だが財産はない。本家から扶助を仰ぐといふわけにはいかない。先生はそれがために非常に苦労を嘗めなければならなかつた。病妻の費用やら何やら、並大抵の苦労ではなかった。
(中略)
丁度其の頃西黒門町の鄭の屋敷が火事で焼けた。先生は其の焼跡へ五間に八間位の木造二階造りの西洋館を建てた。友人から苦心して資金を借りた。

出典:『秋山定輔は語る』

 『団団珍聞』ではビリヤード室の新築を「奮発」と表現し、少しばかり気前よさそうに煽り気味の文を書き連ねていますが、永慶本人は、相当な心苦しさを感じていたではないでしょうか。

 金策に苦労するほどの状況に、永慶の商売っ気のなさが重なり、ついには家の蓄財を使い果たしてしまったことを、兄の永昌は後年になって述べています。

そこで、私は、永慶に、その理想はよいとしても、一銭二銭の商売で、はたして、そうした理想主義が達せられるかどうか怪しいもんだが、商売のほうは大丈夫かね、といったりしたが、喫茶店という営業がまだ時期も早かったし、けっきょく”士族の商法“でオヤジの財産をすっかりスッてしまってね……

出典:『珈琲ものがたり』

 兄弟の心配するとおり、カフェという営業形態も日本では時期尚早だったのか、それほど流行らなかったようです。勝本 清一郎さんによれば、店にはそれほど客が来店せず、いつ来ても入れるほど空いていたそうです。

 教え子だった秋山 定輔は、恩師の店が儲かっていないことに気を揉み、自身の友人を連れて可否茶館へ通っていました。

始めて見れば、一人でも客が多くなければ困る。私は気に懸るし、店を賑やかにするために毎日友達を連れて行くのだった。

出典:『秋山定輔は語る』

 秋山が恩師を思いやるこうした配慮も虚しく、ついに4年後の1892(明治25)年の春、可否茶館は閉店を余儀なくされました。後年、秋山も永昌と同じく日本でカフェをやるのは早すぎたと振り返っています。

師弟の強い絆

 金策に行き詰まった永慶は、月々の赤字を埋めるため、相場に手を出してしまいました。そして、たちまち大損を被り、あっという間に散在します。すると今度は、父親名義の地所を担保に入れ、高利貸の石崎 政吉に借金をしました。

 このようにして、短期間で首の回らない状態まで追い込まれてしまった永慶は、最後には自殺を考えるほどまで思い悩みました。秋山 定輔は永慶と付き合いが長いこともあり、虫の知らせで異変に気づきます。胸騒ぎに従い、永慶の袖机を開けると、そこに遺言状を発見します。

 遺言状に驚いた秋山は、永慶と散歩する機会があったとき、自身の率直な気持ちと、これまでの温情に礼を述べました。すると、永慶は明日にでも拳銃自殺をする覚悟であったことまで、すっかり真意を話したそうです。

 秋山は永慶の話を涙ながらに聞きながら、ふたりで身の振りを考え、話し合った結果、永慶が訪れたことのあるアメリカへ密航するのがいいのではないか?という結論にいたったのです。

密航してアメリカへ

 財政破綻が目前に迫っている中、秋山 定輔は恩師を渡米させるための乗船券を急いで手配しました。借金返済の期日に間に合わなければ、永慶はすべての事情がバレ、身柄を拘束されてしまうかもしれない。しかし、すでに永慶の金は底をつき、乗船券すら買うことができない。秋山は仕方がなく借金をしてまで乗船の手配を続けました。

 渡米経験のある永慶は、顔見知りがいる日本人街へ向かうのは都合が悪いため、やっと日本人が目を向け始めたばかりのシアトルを目的地と定めました。横浜から乗船し、当時はイギリス領だったカナダのバンクーバーを経由し、シアトルへ向かうことにしたのです。

 さらに永慶は、自分の足取りを辿れないようにするため、西村 鶴吉と変名しました。西村 鶴吉は戸籍上に存在しない人物ですから、当然のことながらパスポートを手配することができません。

 パスポートを持たない西村は、なんとかその場を凌いで密航してしまえばよいと考えて横浜で乗船を試みたたものの、不審に思った警官隊に捕まり、パスポートの提示を求められても提示できず密航に失敗しました。

 そこで次は、神戸から横浜へ向かい、その後、バンクーバーを経由してシアトルへ向かう船へ乗りこむ計画を立てました。秋山は、神戸は海外で出稼ぎをする日本人の渡航も多く、少しばかり身分があやふやな人間でも、紛れこんで乗船することができるという噂を聞いたことがあり、このような計画を思いついたようです。

 結果から言えば密航は成功しました。その後、横浜で停船した際に2人は再会、その後もしばらくは文通を交わしていました。

 秋山は汽船の名前を憶えていないようですが、『渡米の栞』には日本からアメリカへ就航した汽船の運賃表があり、ここから数隻の船の名前を絞り込むことができます。

 永慶が乗り込んだのは、三等船室を備えた外国船ということが判っていますから、この条件で絞り込むと、カナダ太平洋鉄道汽船会社のターター号、かアゼニアン号のうち、いずれかということになります。

永慶の最期

 無事にシアトルへ到着した永慶は、現地では皿洗いの職についていました。永慶は秋山と文通を交わしていましたが、そのうちに連絡が途絶し、その途絶から約一年後、秋山 定輔は人づてに永慶が死んだことを知らされました。

 秋山が永慶の訃報を耳にする際、加福という人物が関わっていたのですが、この加福は、かつて可否茶館で芝居をしていた友平 親教に、芝居へ巻き込まれた人物のひとりです。ここにも可否茶館が結んだ縁がありました。

 秋山は後年になって、永慶が死ぬ少し前の手紙のやり取りを通じ、「どうも病気でもしてゐたか、大変体が疲労してゐるらしい書きぶりだった」と振り返っていますが、その推測は正しく、2人はここまで心が通っていたのかと驚くばかりです。

 永慶は病がもとで1895年7月17日(明治28年)に没し、37歳という短い生涯を閉じました。『米国西北部在留日本人発展略史』によれば、当時はサンフランシスコ周辺でペストが流行していたこともあり、永慶も何かしらの感染症にかかってしまった可能性も高そうです。

 語学堪能で社交的な永慶は、アメリカでも多くの友に恵まれ、アメリカ合衆国オハイオ州にあるレイクビュー墓地へ手厚く葬られました。この墓地はブルース・リーも永眠しています。

再開された可否茶館

 一度は閉店してしまった可否茶館ですが、1967年5月(昭和42年)、東京都杉並区阿佐ヶ谷にゴールド街ができると、可否茶館は営業を再開しました。店主は永慶の孫に当たる人物と、共同経営者の小菅さんという2名です。

 残念なことに阿佐ヶ谷駅周辺の再開発のため、2011年8月末日(平成23年)をもって閉店しました。閉店の報は『朝日新聞』(2011年8月18日)や、同新聞社のオンラインニュースでも話題となりました。

 閉店に際し、店主は次の張り紙をしました。

   感謝の辞
可否茶館は八月末日をもって閉店いたしました。
昭和四十二年にゴールド街ができてからきょうまで営業を継続できたのも、ひとえに皆様の御愛顧の賜物と謹んで感謝申し上げます。
皆様とともに歩み続けた歳月を振り返りますと、万感胸に迫るものがあります。
ありがとうございました。

 またいつの日か、可否茶館が再開されることはあるのでしょうか。

主な参考文献・引用文献

人見一太郎『欧州見聞録』民友社
澤護『横浜外国人居留地ホテル史』白桃書房
鄭永邦、呉大五郎『日漢英語言合璧』鄭永慶
鄭永邦、呉大五郎『日漢英語言合璧』丸善商社書店
清水哲男編『日本の名随筆 別巻三 珈琲』作品社
星田宏司『日本最初の喫茶店『可否茶館』の歴史』いなほ書房
寺下辰夫『珈琲ものがたり』ドリーム出版
村松梢風『秋山定輔は語る』大日本雄弁会講談社
内田魯庵『思ひ出す人々』春秋社
新宿歴史博物館編『琥珀色の記憶 新宿の喫茶店』新宿区生涯学習財団
内田百閒『御馳走帖』中央公論社
平田禿木『禿木随筆』改造社
一柳松庵編『渡米の栞』佐々木勘助
横浜開港資料館編『横浜もののはじめ考』横浜開港資料館
林哲夫『喫茶展の時代 あのとき こんな店があった』編集工房ノア
永井荷風『あめりか物語』福武書店
日本西北部連絡日本人会編『米国西北部在留日本人発展略史』日本西北部連絡日本人会
中村舜二『大東京』大東京刊行会
『団団珍聞』
『我楽多文庫』
『朝日新聞』
『可否茶館広告 附世界茶館事情』

参考サイト

野口孝志『倉敷珈琲物語』
『Lake View Cemetery』公式サイト
スイス日本大使館『Grand Tour of Switzerland in Japan


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