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ろせった丸

 「デッキ・ビリヤード」という名前を聞いたことはあるでしょうか。おそらく、ほとんどの方が初めて聞く名前だと思います。私もデッキ・ビリヤードという言葉を知ったのは偶然で、「ビリヤード」というキーワードを調査していたら、たまたま、ある1枚の写真を見つけたからです。

 デッキ・ビリヤードはその名の通り、船のデッキで遊ぶビリヤードのようなゲームです。「ビリヤードのような」と表現したのは、一般的なビリヤードという言葉から連想されるものとは異なるためです。

 デッキ・ビリヤードの遊び方は、オールのような棒を使って円盤を突き出して、甲板上の少し離れた場所に描かれた同心円の中心に円盤を寄せていくというものです。

 同心円の中央に物体を寄せるというスポーツと言えば、近年では冬季オリンピックで注目を浴びているカーリングがあります。カーリングは「氷上のチェス」とも呼ばれますが、「氷上のビリヤード」とも呼ばれることがあります。

 カーリングは、厚みや力加減を考えてストーン同士をぶつける様子からビリヤードに例えられているようですが、デッキ・ビリヤードも、円盤同士のぶつけ方のコツがビリヤードを連想させたのかもしれません。また、デッキ・ビリヤードで利用されるオールのような長い棒は、キューと呼ばれています。

デッキ・ビリヤードの写真

 私が見つけたデッキ・ビリヤードの写真は、東京朝日新聞会社が1906年(明治39年)に出版した『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』に収められた1枚です。

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デッキ・ビリヤードに興じる人々

 写真を観ると、右手に白い服を着ている青年を確認することができます。キューを手にしているのでプレイ中なのでしょう。彼の左手うしろにもキューを確認することができます。写真で確認することができるキューの本数からすると、デッキ・ビリヤードは数人で一緒にプレイすることができるのだとわかります。

 写真の左手前にもキューがあります。その下には同心円に対して向かって水平に線が引かれています。線を追っていくと、途中に小さめの円が描かれているのがわかります。円の大きさから推測すると円盤を置く場所でしょう。ここからキューで突き出すということがわかります。

 向い側で実際に円盤を突き出している男性の足元をみると、同じような線が引かれていることが見て取れます。つまり、双方から円盤を突き出して遊ぶ競技だということになります。

 具体的な得点方法やファールなどのルールは、写真を観ただけではわからないのですが、デッキ・ビリヤードもカーリングのように、同心円内の中心に近い場所に円盤を寄せたプレイヤーが得点を得られたのではないでしょうか。

ろせった丸

 写真が収められていた『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』は、「ろせった丸」という大型船上で1ヶ月に渡る生活を撮影したものです。

 ろせった丸は1880年(明治13年)にイギリスで建造された大型船舶で、もともとは「ロセッタ」という名前でした。これが日本へ売却されると、「ろせった丸」という、いかにも日本船らしい名前で呼ばれるようになりました。

ろせった丸

 ロセッタは、極東から北米西岸航路へ就航させる船舶を探していた東洋汽船の目に止まり、1907年(明治34年)に購入されました。最初に日本へ売却されたのは、東洋汽船の目に止まるより10年も前になるそうで、日本郵船が購入したとされています。

 東洋汽船に購入されたろせった丸は、香港とマニラを結ぶ客船として就航しました。しかし、日露戦争が勃発する兆しをみせた3年後の1904年(明治37年)1月、同じく東洋汽船が保有していた姉妹船「ろひら丸」とともに軍へ召し上げられます。ろせった丸、ろひら丸は、日露戦争において陸軍病院船として軍務につきました。

 ろせった丸、ろひら丸を召し上げられてしまった東洋汽船は、2隻が空けた航路の運行を穴埋めするため、「ソフィロ」「ルビー」など、4隻の小型船舶を客船として就航させました。しかし、大型船舶に比べると小型船舶は速力も顧客の収容も大幅に劣るため、顧客の需要に対し、十分な満足を与えることができませんでした。そこで東洋汽船は、2隻の快速船を新造する計画を立てることで挽回を図るという別の対策を採らざるを得なかったようです。

 ろせった丸とろひら丸には、もう1隻「ラベナ」と呼ばれる姉妹船が存在しています。東洋汽船に「らべな丸」という船が所属していたかどうかは確認することができませんでした。

 じつは、ラベナは世界で初めて鋼鉄を用いて船体が作られた歴史的な船です。世界初の鋼鉄船であるラベナについて、ほとんど記録が残されていないのであれば、船舶史という観点からは少しばかり残念でなりません。

日本初の海外ツアー

 ろせった丸は日露戦争のさなか、東洋汽船から尾城汽船へ売却されています。戦後になると横浜と神戸を結ぶ客船として就航しました。1906年(明治39年)からは、チャーター船となり、各新聞社に利用されるようにもなりました。

 1906年(明治39年)年の初夏には、さっそく東京・大阪の朝日新聞社が合同で、ろせった丸をチャーターしています。朝日新聞社は ろせった丸を「満韓巡遊船」と称し、日清・日露戦争の戦跡を巡るためのツアー船としてチャーターしたのです。

 『外貨を稼いだ男たち』の著者である小島 英俊さんは、朝日新聞社がこのツアー・イベントを企画した理由を、「読者の関心を惹くため」だったと分析しています。曰く、新聞というメディアを通して日露戦争の戦況を知り、一喜一憂することが日常化していた読者は、戦後になると、戦況報告がされない新聞メディアから関心を失ってしまったとしています。

 新聞の発行部数を維持するためには、どうにかして読者の関心を惹かなければなりません。そこで考えられたのが、この「満韓巡遊船」と銘打ったツアーだったというわけです。そう考えると、日本人は昔からメディアの中に刺激を求めていたといえるかもしれません。

 満韓巡遊船ツアーの企画は、1906年(明治39年)6月11日の経営会議の中で議題のひとつとして挙がったものです。この企画は即、採用され、22日には東京・大阪の両新聞紙上で「空前の壮挙(満韓巡遊船の発向)」という大見出しとともに大々的に周知されました。

 立案からわずか11日という短期間で承認された、急ごしらえの企画だったにも関わらず、国民の関心を惹くには十分な内容を持っていたようです。決して安いとは言えない参加費にも関わらず、370名の定員は3日もかからず満員御礼となったのです。最終的にこのツアーへ参加した人数は389名にも上りました。

 『海外観光旅行の誕生』の著者である有山 輝夫さんは、このイベントが成功した要因を次のように分析しています。

満州韓国という大多数にはまったく未経験の土地を朝日新聞社が用意したガイドが付いて団体で旅行することが、満韓巡遊旅行が大きな人気をはくした原因のひとつ

出典:『海外観光旅行の誕生』

 旅行日程の調整、宿泊施設や交通機関を利用するための手配、そしてガイドもついたパッケージ旅行は、この満韓巡遊船ツアーが日本初の試みであった、ということになります。

 ツアー・コンサルタント会社のジャパン・ツーリスト・ビューローが創立されたのは、1912年(明治45年)ですから、満韓巡遊船ツアーは、それよりもかなり早かったことになります。そもそもジャパン・ツーリスト・ビューローは、外国人客を日本旅行へ誘致するために創立された会社ですから、日本人を海外旅行へ誘致するという試みは、当時は相当もの珍しかったと言えるでしょう。

船上におけるプレイの様子

 満韓巡遊の旅は1ヶ月間にもおよぶ、とても長いものでした。新聞社が企画したツアーだけあって、海上の様子は写真とともに伝書鳩へ託され、日々紙面で報告されました。

 ツアーには写真班も同行していました。写真班が撮影した写真を後にまとめて発売したのが『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』です。

 『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』をじっくり眺めていくと、船内には洗濯屋、氷水屋など、生活に必要となる施設が用意されていたことがわかります。

 また、甲板で観光団が輪投げやデッキビリヤードに興じている姿も映されており、航海中に退屈しないような配慮がされていたことが見て取れます。

輪投げをしている様子

  7月29日と翌30日の紙面では、デッキ・ビリヤードに興じる観光団の様子が伝えられています。ろせった丸は横浜港を出帆した後、運悪く暴風に見舞われ、一時、武豊港へ避難しています。20時間以上の遅延があったそうですから、てっきり私は、観光団はすっかり弱り果てているのかと思っていましたが、なんのなんの、天候が良くなると甲板へ上がり、デッキ・ビリヤードを楽しんだそうです。

 29日の紙面では、ツアーに同行した海軍の齋藤中佐と正木軍少佐がデッキ・ビリヤードで勝負をしていると、次から次へと人が集まりはじめ、果ては乗客も船員も入り交じって勝負に熱中した、ということも報じられました。翌30日の紙面では、その様子をイラストにしたものが掲載されています。 

名古屋開港をサポートする

 朝日新聞社の満韓巡遊船ツアーから無事に帰ったろせった丸は、9月頃、報知社にチャーターされました。報知社は海外ツアーではなく、「巡航博覧会」というイベントを催しました。巡航博覧会は、ろせった丸の船内に展示物を搭載し、日本各地の港へ立ち寄りながら展示を行うという風変りな移動博覧会です。

 巡遊博覧会が開催された当時、熱田港は、大型船舶を停泊させることができるようするために浚渫作業の途中でした。しかし、この浚渫作業の進捗は芳しくなく、地元住民は熱田築港を反対する運動を次第に強めていったのです。

 土木技師として参加していた奥田 助七郎は、熱田港の重要性を地元住民へ知らしめるためには、実際に大型船舶を入港させるほかに手立てはないと考えていました。奥田は巡航博覧会の航路に四日市港が含まれていたことを知り、ろせった丸を熱田港へ寄港させてもらえないか、報知社へ掛け合いました。奥田は、最終的にろせった丸の船長を説得し、自らが熱田港までの水先案内をかって出ることを条件として、寄港許可を得ることに成功したのです。

 1906年(明治39年)9月29日、ろせった丸が熱田港へ入港すると、10万人を超す住民たちが万歳三唱をしてろせった丸を出迎えたそうです。これを機に反対運動は弱まっていき、熱田港はついに開港することができたのです。

 ろせった丸の入港から1年後、熱田港は名古屋港と改名され、愛知県の玄関口として賑わうようになります。 

風変りな海上ホテルとなる

 1907年(明治40年)に入ると、ろせった丸は芝浦埠頭に係留され、海上ホテルに生まれ変わりました。「ろせったホテル」と呼ばれたこのホテルは、日本ではじめての海上ホテルだったのではないかと言われています。

ろせったホテル

 ろせったホテルには、500人以上が会食できる大広間が用意されており、食事も和・洋・中から豊富なメニューを用意していたそうです。また、演芸や活動写真、浪花節を楽しむための施設も用意され、風変りな趣向から人気を博したそうです。

 パーティ会場としての貸し出しも行っていたのか、ろせったホテルでは、いくつものイベントが開催されていたようです。

 イベントのひとつに満韓巡遊船ツアーの観光団が開催した懇親会が開かれた記録が残っています。観光団は、ツアー終了から2年後となる1908年(明治41年)、ろせったホテルへ集まって当時を懐かしんだのです。観光団は満韓巡遊船ツアーの出帆前にも自主的に懇親会を開催したことがあるので、ろせったホテル上で行われた懇親会もまた自主的な集まりだったのではないでしょうか。

 そのほか、世界的なプリマドンナとして名を馳せた三浦 環の独唱会や、「政教分離」や「信教の自由」で有名な島地 黙雷の古稀祝賀会が開催されたという記録も残っています。

 白瀬矗率いる南極探検隊が開南丸に乗船して出帆したのも、ろせった丸が係留されていたこの芝浦埠頭からでした。1910年(明治43年)11月28日、午後1時から行われた送別会には、5万人ともいわれる国民が白瀬隊の見送りに訪れました。この際、大隈 重信が「百発の空砲は一発の実弾にしかず」という送辞を述べたことは有名な話です。

 白瀬矗の自著『南極大陸に立つ 私の南極探検記』には、出帆時の様子が克明に描かれており、ろせったホテルの周辺の様子もうかがえます。

送別の会を終えるや、隊長白瀬中尉以下二十七名の一行は南極星を染め出せる旗を打ち振れる数万の学生団に取り巻かれつつ乗船場なるロセッタホテルの桟橋際に至れば、ここには一行を本線に送るべき大伝馬船をはじめその他二十余艘の各団体の見送り船が国旗彩旗を美しく飾り立て、なかには楽隊を乗り込ませたものもありたり。

出典:『南極大陸に立つ 私の南極探検記』

 このように日本史に残るようなイベントが開催されていたろせったホテルは、明治末期のランドマークとして親しまれていたのではないでしょうか。 

その後のろせった丸

 風変りな趣向を凝らしたろせったホテルは、開業から3年も経つと早々に飽きられてしまったそうです。ろせったホテルがいつまで営業されていたのか、その記録は残っていません。

 ろせったホテルに関するもっとも新しい記録は、1911年(明治44年)8月16~18日の3日間に渡って行われた、時事新報社主催「速力検定競技大会」の競技会場として利用されたというものです。

 ろせった丸が係留されていた芝浦付近は遠浅であるため、ろせった丸は長い長い桟橋の先に係留されていました。この桟橋を軸にして、埋立地内に丸太を張り巡らし、潮流の影響を受けないように工夫を凝らしたコースでタイムを競ったそうです。

 速力検定競技大会では100ヤードと200ヤードの種目が行われ、神伝流、向井流、笹沼流、水府流といった、日本泳法の各流派が活躍しました。日本がはじめてオリンピックに出場したのは、この翌年となる1912年(明治45年)ですから、明治末期になって、ようやく日本之スポーツも近代化が大きく進んだと言えると思います。

 ホテルとしての役目を終えたろせった丸は、どのような末路を辿ったのか、よくわかっていません。第一次世界大戦の際に召し上げられたとも言われていますが、徴用されたという記録も残っていません。

 客船として生まれながら、軍務についたり、チャーターされて観光船となったり、挙句の果てにはホテルとして利用されるという数奇な運命を辿ったろせった丸は、いまでも謎の多い船として名を残しています。

参考文献

若林欽『今昔船物語』洛陽堂
横田順彌『明治はいから文明史』講談社
東京朝日新聞社『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』
小川一真出版部『東京風景』
野間恒『増補 豪華客船の文化史』NTT出版
横田順彌『明治時代は謎だらけ』平凡社
大町桂月『筆のしづく』公文書院
有山輝夫『海外観光旅行の誕生』吉川弘文館
鈴木良徳『オリンピック外史 第一次大戦をはさんだ二つの大会』ベースボールマガジン
外務省通商局編『通商彙纂 第103巻』不二出版
小島英俊『外貨を稼いだ男たち 戦前・戦中・ビジネスマン洋行戦記』朝日新聞出版
島地黙雷上人古稀祝賀会『島地黙雷老師 古稀祝賀記念』平和書院
渡部誠一郎『雪原に挑む 白瀬中尉』秋田魁新報社
白瀬矗『南極大陸に立つ 私の南極探検記』毎日ワンズ
『東京朝日新聞』朝日新聞社

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