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憧れの女性

前からうすうす気づいていたことだけど、私には「まるごと憧れる女性」という存在がいない。そりゃあ部分的に憧れている女性はたくさんいるけれど、どこまでいっても憧れる女性はその人の「一部分」なのだ。「この女性のこの素直さ、打たれ強さと、あの女の子の書く文章と、この子の(良い意味での)万人うけ具合、憧れる…….!」というように、私の中で憧れの女性像はつぎはぎのパッチワークで形づくられている。「総体として、まるまる憧れます!」という女性はいない。
人間としては男性より女性のほうが好きだし、すぐに仲良くなれるのはかならず女性のほうなのだけど。

よく「吉本ばななは違うんですか?」と聞かれるけれど、彼女は「師匠」であって、「憧れ」ではない。憧れは「ああいう人に自分もなりたい」ということだとおもうのだけど、私は吉本ばななのような人間になりたいとは思わない。あそこまで行くとあらゆるトラブルに呼ばれそうだし、そもそも目指せるとも思わないほどの圧倒的な才能、能力を感じるし。

うーん、ややこしい。

まあとにかく、男性のほうが「全面降伏」しやすいということだ。
「うわ〜全部最高。全部推せます、全部憧れます。」となるのはいつだって男性のほう。なんとなく「これだったら自分も目指せそう」と思ってしまう何かがあるのだ、彼らには。現に私の将来の目標は「女版みうらじゅん」になることだし、おくりバント会長の高山さんや兼好法師など、私が無条件に憧れることができるのはなぜか、わかりやすく個性的な男性なのだ。

なんでだろうね。
女性として、いまのところ男性しか持ち得ない「許容範囲の広さ」みたいなものに憧れているのかもしれないし、単純に見た目の問題なのかもしれない。(兼好法師以外の共通項、それは髭と髪の長いサングラスということ。我ながらわかりやすいな……)
それかもしかすると、異性になった途端にいろんな粗が見えなくなっているだけなのかもしれない。同性だと細かいところまで意図せず「見えて」しまうものなので、その子のひみつのブランディングの仕方まで瞬時に察知してしまうこともある。同性は客観的に見えすぎてしまうところがあるのかもしれない。

しかも女性の語る「憧れの女性」となると、どうしても見た目にフォーカスされがちなことも気に食わない。女になった途端、なぜあんなに美が求められるのだろう。なぜあんなに美を追求しようと思うのだろう。
結局「美」に行き着くのは女の宿命なのかもしれないが、そろそろもっと内面重視で、発言や発想で評価されないものか、とは思う。それこそ女性だって、サングラスの黒髪で登場したっていいはずなのだ。しかし女性のそういう「遊び」はあまり受け入れられていない。
そこの許容範囲の広さは、けっきょく女性には今のところ認められていないよな〜とは思う。男性にはそのかわり超・実力社会で辛いのだろうけど。

何が言いたいのかというと、そういう「唯一無二のまるまる憧れる女性に、自分がなるしかない!」とつよく感じるという、これまたあつくるしい主張だ。

私がなりたいのは、教養があって、突拍子のないあやうさがあって、それでいて賢くて、おもしろくて。私の外面が美しいのではなく、結果的に存在の総体としてセクシーさを感じさせる人だ。つまり見た目以外のすべてで勝負している人。そんな人になりたい。私が見てきた中で、そういうぱっと見の矛盾を抱えた女性はまずいないから。ラベルとして簡単に理解される女でありたくない。

いや〜、頑張って新しい女のジャンルを開拓したいね。開拓したいよ。まだまだこれからだよ、「女」の余地は。




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