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HONNE

英国の2人組アーティスト・HONNEは日本語の「本音」から来ているという。自分たちの音楽性に一番近い言葉だったのだそうだ。

日本語で「本音」というとなんとなく嘘っぽい感じもするけれど、HONNEと英語表記にすれば少しはマシになるような気がする。

*つまらない作品

どこかの誰かが「SNSではみんな作品を褒め称える内容しか言ってなくて可哀想」(正確に言うと「可哀想」ではなかったような気もする……)と言っていた。全くその通りだ。「おもしろくない」「つまらない」「わからない」はなんだか御法度とも言えるような潔癖性が蔓延している。

こういう時こそHONNEの出番である。

みんな、胸に手を当てて考えてみよう。
おもしろくない作品、つまらなかった出来事って、あったでしょう、ね。

私はいくらでもある。というか、たいていのことはつまらない。
例えば皆んなが絶賛していた『スーパーマリオブラザーズ』の映画。つまらなかった。私がゲームで育ってきていないせいかもしれない。

ほぼ記号として消費していたキャラクターに、いらないストーリーを後から付け足して、妙に奥深い存在として描き直すことがある。そうじゃない、俺たちが求めているのはそっちじゃないんだよと言いたくなる。

いつでも無言で、イラストや写真では常に笑顔で、ここではない高潔で尊い世界に住んでいる彼・彼女が、急に感情を持った(社会的な)存在として描かれると途端に幻滅してしまう。喋るプーさんを見てギョッとしてしまうのもそういう理由だ。人間的なものじゃない存在を求め、最下層にある人間の世界からは遠い超ファンタジーに住む住人が、人間による蛇足なストーリーで一気に「下界に降りてくる」。そこはもっとセンシティブになってほしいと強く思う。

ゲームでは「ア〜!」とか「マンマミーア!」しか言わなかったキャラクターが、巨大スクリーンで饒舌に喋り出した瞬間の違和感。なんとも興冷めな気持ちになってしまったのは私だけだろうか。いや私だけではないはず。

あ、あともう1作品。Netflixで配信されている韓ドラ『キング・ザ・ランド』。これもつまんない。
2PMのジュノと少女時代のユナという夢のようなアイドルコンビだが、あまりにも「それだけ」な脚本すぎて残念。とにかく、財閥3世のジュノがなぜユナを好きになる背景が雑すぎて、全然感情移入ができない。今の時代、財閥御曹司×部下という構図には、とりあえずでいいから「今っぽい」価値観を私は求めてしまうのだけど、それもない。ただジュノが典型的で独占欲強めの傲慢なやつにしか見えない。それを好きになるユナも逆に心配になってくるというか、見た目も華奢なだけに「お人形」にしか見えないストーリー。もっと、人として惹かれるポイントをみたい。

しかしさすがは今をときめく韓ドラ。
全世界に発信されるコンテンツで、自らの朝鮮文化をしれっと織り込ませるのが本当にうまい。シンプルに尊敬する。本当に抜かりない。
ちゃんとお金をかけて、「KPOPだけの文化も知ってね」と伝えられている。さすがに視座が高い。お金のかけ方も、どんどん気持ちよくなっている気がする。こうやって日本はどんどん落ちていくんだなぁと、ゆっくりと描かれる放物線を眺めている気持ちになった。

*need 新陳代謝

やべぇ、今まで新陳代謝のことを「しんじんたいしゃ」と読んでいた。そう打つと候補に出てこなかったので「しんちん」と入れ直してようやく出てきた。やば。まぁそんなことはさておき。

山下某郎氏の一件を見ていると、何か事が起きてしまった時にSNSを持っている・持っていないはいよいよ関係なくなってきたんだなと思った。
もはやSNSを持っている・ネットを見ているとかの問題じゃない。もっともっと大きなダイナミズム、時代のうねりのようなものを感じる。もっと大きな何かに、私たちは飲み込まれていると思う。もう変わらざるを得ないのだろう、私たちは。

日本が豊かだった時代を知らないから私は何も怖くない。ただ変われば良いのだ。だって、これまでの在り方で嫌な思いをしている人がたくさんいるのだから。民主主義のくせに自由に生きられない人がたくさんいるのだから。「子どもを持つことが贅沢」というヤバい価値観が、この私でさえうっすらと分かるまでになってしまっているのだから。need 新陳代謝。

*生きるという演劇

演劇のことは全く知らないが、社会に生きる私たちは都度「お芝居をしているのだ」という感覚は昔からある。

だから全てのことは「(どうせ芝居なので)テキトーに流しておけば良い」とも言えるし、なんとも虚しい「壮大なごっこ遊び」とも言える。どう捉えるかはその時の精神状態しだいだ。今の私は「まあ、どうせ人生というロールプレイだしな」と流せるくらいには冷徹で、楽観的で、テキトーだ。
家に帰ってこうしてHONNEを垂れ流せる場所さえ確保しておけば、劇はちゃんと毎日幕を下ろせる。肝心なのは、人生という途方もない小芝居で、こまめに「終演」することなのだろう。でないと多分ひとは簡単にしぬ。

だいぶ前に読んだ福田恒存の『人間・この劇的なるもの』を再読したい気分になった。

*スナックでのHONNE

前にはじめて訪れたスナックで(時刻は24時くらい)、初対面のママからいきなり「あんた、かわいくないね」と言い捨てられたことがあった。外面ではない。会話の節々に出てしまっていたのだろうスタンスや、存在そのものだろう。疲れも出ていたのかもしれない。
出会って自分の何かを見抜かれたという事実に、正直かなりのショックを受けた。同時に、「お前が思うような『かわいい後輩』になってたまるか」という反骨心がふつふつと燃え上がってきた。

その時点で酒が回っていたそのママが言うには、「自分の芯は大事。軸に持っているんだけどぉ、軸を持ちながらも左右に大きく揺れることがも〜っと大事なのよお。そうなのよ」と。わかりそうでわからないようなことを言われた。いや、言っていることは分かる。

「だから〜、それを今俺が目の前でやってあげてるっつーの! 俺なりに酔ったダルいBBAの話を『へぇ〜〜〜!ショックゥ〜〜〜。それってどういうことですかぁ〜🥺』って一生懸命盛り上げてんじゃねーか」と言いたい気持ちはグッとこらえた。

こういう人間がいるから、こう思ってしまうから、俺は「かわいくなりたくない」のだ。
相手そのものを見ず、相手のパフォーマンスだけを見る。「自分にしてくれること」だけを見る。
そういう年配は、後輩からすればむしろ「チョロい」存在だ。逆手に取れば、「型にさえ順ずればあとは勝手に喜んでくれる」ということなのだから。

それって、相手をギリギリ馬鹿にしているのと同じではないだろうか。「こうすれば喜ぶんでしょ〜ほらほら〜やっぱりね〜」と。あざとい後輩は心を無にしてまでもそういう形を取ることができる。それが本当に「良い人間」だと言えるのだろうか。横からみている私からすれば、それこそが失礼極まりない態度にしか思えない。

まぁ、こんなことを書くからスナックのママからは「かわいくない」と言われるんでしょうね。でも今の私にはそうとしか思えないから仕方がない。





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