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野性

何かに巻かれて生きていると、ついつい野性を忘れてしまう。忘れちゃいけないのに。

私を取り巻くのは社会人というカテゴリ、SNS、若者……いろんなものがある。そこでふつうに生きようとすると、意識せずとも自然と周りに合わせるようになる。

飲み会の場で、つまらない話を聞きながら愛想をよく振る舞っている瞬間も野性を忘れていると感じるし、嘘でも本当でもないけどどちらかといえば「嘘」みたいなことを言っている時も野性を忘れているし、何かの見栄のためだけに動いたり何かを言ったりする瞬間も、野性を忘れてしまっていると感じる。私の生活の中では。

けれど、生きていれば、何かに違和感を感じたり、不快に思ったり、些細なことで悲しむことはいくらでもあって。

そういう小さな心の動きに目をつむらず、無かったことにせず、こうして時おり言葉にして外に吐き出したり、誰も気づかないほど細かく自分の行動を調整していくことが、私の中では「野性」的な生き方だ。少なくとも自分の中の野性を絶やさず生きていくためには、社会に「飼育」されながらも、人間の、本能的な叫びを忘れず動いていくことが大事なんじゃないかと思っている。

平日を忙しく過ごしていると、ついつい野性を忘れてしまいそうになる。動物としての叫びや生々しい感覚は、システム化された社会の動きとは全く相反するものだからだ。野性は、社会の中では無秩序で(本当は美しい秩序があるのだけど)、不合理的で、生産性のないものだとされている。それを削ぎ落としたものが、今の世の中では経済とされている。

いわゆる「活躍」している人たちを見ていると、私からすれば「おや?」と思う人が多い。どこまで行っても霧をつかんでいるような感じになって怖くなるのだ。人間の生々しい部分がきれいにどこかへ飛んでいる。自分の見え方をよくわかっており、ウケ方もよくわかっている。きれいなものや「すごい」と言われているものだけを、順番に、手際よくこちらにみせていく。
でも、それって本当に面白いんだっけ? 本当にきれいなんだっけ? というのを最近はよく考える。

あんまり具体的なことを書くと面倒なので割愛する。
私は野性的な生き方をしたい。

社会と経済に飼育されている私にとって、同じ世界にいながら常に野性的な動きで懸命にサバイブをしている人間の存在が、この上なく重要になってくる。私の指針になっていると言ってもいい。
そういう人たちにいつもハッとさせられるし、「あ。いけない、また私は社会に飼育されているのを忘れていた」とふと我に帰ることができる。

私にとってはそれがアートであり音楽であり、創作活動の世界だった。生きている人間の、非合理的なものを扱っているもの。

「野性」の言葉で真っ先に思い浮かぶのは、GEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーだ。いつでも血のように赤い服を着て刺々しい人格をしているかと思いきや、全くそんなことはない。声を聞けばむしろ奇跡的と言えるほどの少年性も兼ね備えていると感じた、赤い天使。

彼の音楽というより、発している言葉やそのスタンスをいつもよく見ている。野性丸だしで、よく生きてられるな、いや音楽だから生きていられるのか、なんて思ったりもする。

彼のような野性の人たちがが同じ世に生きていること(生きていけていること)が、私にとっては強い支えとなっている。
本音で人とぶつかって、ぐちゃぐちゃになって、泣いて笑って、腹を立てて、急に走り出して、メソメソして……血の通った、ぶさいくで美しい野性剥き出しのままで生きている人。そういう人が同じ世界にいるということが、どれほど心強いことか。同じ社会でそういう生き方ができるということが、どれほど希望に映るか。
野性のままでも生きていけるんだ、ということを生き様で証明してくれる彼のような人間、存在が、とても好きなのだ。

彼らの存在を心のポケットに入れて、野性を完全に忘れてしまわないように社会を適当に泳ぐ。生きていればう〜んと思うことも多いし、ダサいものやこわいものにもたくさん出会うけれど、そういうときにはいつでもポッケの内側にある真っ赤な血のことを思い出して、巨大な波に飲み込まれないようにする。そもそも私にだって、真っ赤で生あたたかい血が流れているのだから。

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