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お盆オムニバス

ハローいとしき隣人のみなさん。ご機嫌いかがですか。

台風と線状降水帯がヴァカンス中の東日本を悠々とまたいでゆき、うっかりpcを開くと、ちりつもになった明日からの現実がフラッシュバックしてきて、胸焼けがしてます。

例のごとく、数千字も書く体力のない話題をかき集めたオムニバスを書きました。これをもって私からの近況報告 兼 残暑お見舞いということにいたします。みなさま、お体にはどうぞお気をつけてお過ごしください。

*ハチロク

8月6日、広島の原爆投下祈念日だった。広島県民として、この日を東京でどのように過ごすかはかなり悩ましい問題だ。県外に住んでいる者として、少なからず使命感のようなものを感じている。自分の気持ちや使命感との折り合いをつけるのがめんどくさいのだ。

つまり、SNSやこうしたところで平和や核兵器廃絶をまじめに説くのか、あるいは、あくまでも個人の心の中で平和を思い、色々考えるにとどまるのか。毎年真剣に悩んでいることなので、一刻もはやく日付が変わってほしいというのが正直なところだ。8月6日に対する自分の価値観を形成している最中なのだと思う。

たしかに同じ日の都会のよそよそしさは否めない。8時15分にはサイレンもならないし、街の空気が異様に重たくなることもない。
けれど上京していろんなものを見たり聞いたりしていくうちに、毎年同じ日付で平和を叫ぶだけで、本当に良いのだろうか?という疑問を感じるようになったのもまた事実だ。いや、そうやって毎年ラブアンドピースを訴えることも必要だとは思う。単純に、それを言わなくなってしまえばもうおしまいだから。

でも、もういい大人なんだし、もっと立体的・主体的に自分の考えを持っていたほうが良いいんじゃないか?というのが最近よく考えていることだ。それは今の広島が、日本や世界にとって観光地・平和産業として経済的にも原爆ドームに支えられているという面も含む。グロかった、だから繰り返してはならない、だと、見た目や数字の悲惨さに訴えるものが多く、正直平和教育はレベル1というか。
まだうまくまとまっていないけど、とりあえずもっと多角的な視点で故郷を見ることが私にとって必要そうで、それが固まるまでは何らかのわかりやすいアクションを取ることを控えようと思っている。

*男in女、女in男

私がそそられる単語の連なりは、女、男、生、死、性、産、魂 。
空のほうではなく、人間の内側にあるほうの宇宙の話が大好きだ。そこに全く触れずに生きていくこと、それからインスパイアを受けずに何か作品をつくろうとすること自体がもはや不可能というほどに、私たちの人生そのものに関わる大きなテーマ。そこを真剣に考えている人やモノやコトを私はとても信頼しているし、好きだ。

数年前、宇宙という言葉は星や衛星や銀河の空の世界にとどまらない!ということを知って以来、私が常に興味を持ち続け、唯一常に目を離さず見てきているものが、このもうひとつの(ある意味こちらが本物の)宇宙としか言いようのない目には見えない流れや循環のようなものだった。

何言ってんだお前、いいから本題に入れよってね。

吉本ばなな師匠も言っていることだけれど、私は男女の間の差がますますなくなっていくんじゃないかと思う。しかも、互いに歩み寄るというのはもちろんなんだけど、どちらかというと男の人のほうがこちらへ近づいてくるのではないかと。近づくというか、元いたところに戻る、というイメージが近い。着想は私が人生で一番好きな映画、『Headwig and the angry inch』の劇中歌、「origin of love」からだ。

それは別に、男性でもメイクをするようになるとか、ネイルをするとかのわかりやすい近づき方ではない。もちろんそれもあるけど、もっともっと内側にあるものだ。

最近はその反証材料(やっぱり!としか思えない証拠)がどんどん集まってくるので、この私の世界観はますます鮮やかに色づいていくばかり。いまゆっくり読みすすめている会田誠の『性と芸術』という本の中でも、「男は男であることをだんだんと拒絶しはじめている」というような内容が書かれてあって、ほらみたことか!と良い意味で思うのだった。その事実がすなわち男の「女化」を意味するとは全く思わないけれど、すくなくとも現状の立ち位置からはどこかへ移動したがっていることは確かだと思う。

そんななか、Tempalayというバンドのボーカル、小原綾斗のあたらしいソロ活動「小原綾斗とフランチャイズオーナー」から今日公開された新曲のMVが本当に本当に素晴らしく、また私は有力な反証材料を手にしてしまった。

紫色の子宮のような場所で男子高校生の制服を着たアーティストたち。サワサワした胎動を思わせる音を背景にして、この曲ははじまる。
『おっぺえ』とはおっぱいのことだ。よくよく歌詞を聞いてみると、「おっぱいってなんだか美味しそう、吸いたいな、もうお母さんのお腹に戻っちまいたいぜ」ということを永遠に歌っている。

字面はすごいかもしれないがこの曲は下ネタでもなんでもない。エロいチルソングでもない。小原綾斗の天才的なバランス感覚で実現された、至極真面目な本能を歌いあげている、と私は思う。ママのお腹のその中に戻りたいのはつまり、男も女の体の中に入っていた時期への憧れを意味する。それって、超原始的な「男女の溝のない」状態ではないか……?と。

そんなわけでいま、めちゃくちゃ感動している。こんな匙加減の難しいテーマを現代的なバランスで実現させて、男子高校生の制服という絶妙な制服で仕立てあげるセンス。ついにここまできたか、という感じだ。

もし私が作家になって何かをつくることになったら、おそらくここらへんのテーマでつくることになるだろう。どんどん近づいていく現代の男女(人間)たちの潜在欲求をくすぐるもの、気づかせるもの。そして、男のほうに歩み寄ろうとするも、結局派手には動くことができない女の身体の(生理のある子宮を持つ女の)どうしようもなさ。だからこその救い。そういうのをテーマにしたい。渾身のZINEとかねえ。つくりたい。

*気づいてしまう

「気づいちゃった……」って、なんとも怖い響きだ。
私は昔から、何でも悪いものに気づいてしまうともうその瞬間から身が入らなくなる癖がある。例えば自分がやっていた商品のラッピング作業が「ゴミを増やすだけ」のものだと気づいてしまった暁にはもう手が進まなくなるし、上京してすぐに行ったディズニーランドのアトラクションの看板に、まあまあデカい協賛企業の名前を発見した瞬間にはサーっと血の気が引く思いになったこともあった。知らぬが仏とはまさにこのことで、自分が人生で最も楽しかった幼稚園の3年間は、単に「世界を知らなかったから楽しかった」だけなのかもしれないと思う。

気づいてしまってはもうどうしようもない。気づく前の自分を立たせていた単純な動機は失われてしまうけれど、気づいたからこそ広がる世界もちゃんと用意されている。反対に気づいてしまったからこそ、以降の人生でずっと夢中になれるものを見つけることだってある。

甘くて酸っぱい、そのどうしようもない高低の連続が、人生を押し広げてかけがえのないものにする。相変わらず痛々しい、1枚1枚薄皮を剥いでいくような人生だけれど、そういう痛みや怖さの先にしか、まともな人生は来なさそうな気さえする。

気づいてしまった後の世界で、どんな風に生きていくか。逃げるのか、気づきをもとに自分なりの生き方を模索するのか。人によってはそこで死という選択肢も入ってくるだろう。

「気づく」の先の態度を取得する修行も、私たちにはおそらく課されている。私の場合はおそらく、ひたすらに気づき続け、そしてひたすらに動き続けるだろう。失ったものの痛みと、代わりにやってくるであろう新しいものとの出会いの積み重なりで、私という人間はきっともっとおもしろくなる。どれほど痛くても、気づくことで自分が好きな自分に近づいていく。

気づいていないふりをするほうが圧倒的に有利にはたらくこの社会で、気づくことから最後まで逃げずにいたい。気づいてしまう自分を恥じないでいたい。気づかないことに慣れてしまわないでいたい。そういうことを感じている同志たちと暮らしていきたい。
感覚を鋭くたもち、それでいてつねに軽やかに生きていくこと。それが私の抵抗のありかたなのだ。






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