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オモコロ的文章、手元に意識を向けるということ

オモコロ的文章を書ける人を私は尊敬している。
読んでてゲラゲラ笑えてくるようなおもしろい文章には、文量が少なくとも意外とコツが必要だったりするものだ。ああいうネタ系の記事には間や強調箇所などの微妙な匙加減、そして何よりも、生活で全くタメにならないものをただただ楽しむための記事を、最後まで熱量を維持して書きあげることが重要になってくる。意外と難しく、私は書けない。

私が想像するところのオモコロ的文章とは、(こうやって定義している時点でオモコロ的世界の住人じゃない。ウケる。)
日常で誰もが見落とす些細なシーンを、想像力と少年心を持ってぐいぐいと引き伸ばし、途方もない検証を自ら進んでやりきる。そしてその熱量を維持したまま、ひとつの記事にしたもの。それがオモコロ的文章だ。

その取るに足らない、みんながスルーしてしまう日常の1シーンの引き伸ばし方と熱量の高さに、毎度圧倒される。まるでなんでもないシーンをスローモーションで見ているような気持ちになる。私は一体、どれほどおもしろく見れたはずの一コマを落としてきたのだろう。
しりひとみさんや、岡田悠さんが私の中での「ザ・オモコロ的」な人だ。普段誰もやらないようなめんどうくさい検証をすすんでやってのけ、そのまま熱量で記事を書き上げてしまう。

確かにぼんやりと想像することがあっても、実際にやって文章にまでおこす人はいない。しかも、こんなにも面白く。

私はどちらかというと飽き性だし、こんなにひとつのことを熱量を持って検証して、書き上げることができない。アイドルやMV解説などの結果考察系は、書いているうちにどうでもよくなってしまうのだ。

それに、私は常に目の前のことをそっちのけで自分の思索ワールドに入り込む癖があるらしい。果てのない連想ゲームを頭の中で繰り広げているとも言えるが、そのため今ココにあるものに向き合うのではなく、どんどんと横に全く関係ないものを繋げて考えてしまうのだ。
無人の物々交換所を見た時には、「たしか地元の高速道路の裏の畑に無人販売所があったなあ」「つくった人の善意の信頼度はすごいなあ」「前に子供の頃、無人販売所でこっそり持ち帰ろうとしたことがあるなあ」「うわー、田舎のおばあちゃん家が思い出された。帰りてえ。」など、思考がどんどん横滑りしてしまう。永遠に「今ココ」を掴むことができない。
もしくは、抽象的な事柄について、トルネード状に下に渦を巻いて考えを彫っていくスタイルか。
どちらにせよ、考えすぎなのだ。今を生きていない。

その分オモコロ的文章は常に「今」を生きている感じがする。今目の前にあることに集中して、おもしろがって観察して、それを楽しむことができている。それの過程が表れているのがオモコロ的文章なのだ。

どちらかというと読んでて興奮して、好きだ!!!と両手でガッツポーズをしたくなるのはこういうゴリゴリのスルメ式文章だ。

ここでまたまた私の好きなバンドのボーカルが出てくるのだが。
このnoteのように、名前のない社会のあらゆるものに対して自分なりに考察を深め、思考のトルネードが下に向かってどんどん降りていくものが好きだ。私もどちらかというとこっちのタイプの文章を書く。
文章の中に個人の思索の痕跡がわかり、かつテーマが社会との関わりがあるものだと尚興奮する。興奮するって文字にすると気持ちわりぃな。

目の前に意識を向けることは、私にとってかなり難しいものだ。
昨日も書いた岡崎京子の『Pink』でも、主人公のユミちゃんが目玉焼きを焼いたシーンで、「きれー、こんなにきれーだったけ?卵の黄身って」みたいなことを言いながら、無心で目玉焼きを見入っているシーンがあった。とてもハッとさせられた。
私は今までに目玉焼きの黄色さに感動したことがあるだろうか?考え事をせずに卵を焼いたことはあっただろうか?観察したことはあるだろうか?
主人公と仲を深めるハルヲくんに至っては、突然自分の手をまじまじと見つめて「えーっ、よく見ると手って気持ちわるい見た目してんな!」みたいなことをさらっと言ってしまう。そんなこと、考えても見なかった。手をまじまじと見つめることもなかった。

オモコロ的文章とはつまり、日常の目の前にあることだけを見て、観察して書くことなのだと思う。そこに深い推察や自分の思考のトルネードは必要なく、ただただ手元にあるものに集中して追っかけていればいい。

ただ、こちらの方を書けるようになりたいかと言われれば、それも少し違う。やっぱり私は玉・流・成のnoteのように、思考の足跡が見えるnoteを書いていきたいし、そういうnoteしかもう書けないような気がしている。

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