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まやかし、ごまかし、あまやかし

今日は抽象的な話を。

まやかしやごまかしのなにがダメかって、それを何回か見過ごすうちに、いつしか体がまやかしを本物だと錯覚してしまうことだと思う。頭は一度下した命令を素直に受け取るお利口さんでもあるが、それは裏を返せばバカとも言えるので何回か「ほ〜れ、これが本物だよう〜」と言って目の前でまやかしをヒラヒラさせてしまうと、つまり少しでも自分をあまやかしてしまうと、本当にそう思うようになってしまうのだ。

もっと怖いのは、そうやって目の前でヒラヒラさせているうちにいつのまにか慣れてしまい、まやかしが本物と入れ替わってしまうことだ。そしてまやかしが本物のなりすましをしていることに自分自身が気づけなくなること。まやかしを本物だと思う訓練をしてしまってはもう遅い。何がなんだかわからないのだと思う。まやかしにあまやかされている。

本当の姿がなんなのか、本物が何かもわからなくなった人間はまったく違う方向に進んでいって人生の歯車が少しずつ狂っていく。それは過去のいろんな映画や本の示唆しているところだ。(今パッと思いついたのは映画の『トゥルーマン・ショー』)
まやかしという名の分厚い土と埃に埋もれてしまった本来の姿、本来の自分を取り上げる作業は、時間が経てば立つほど難しい。心理的にも、技術的にも。

まだ23年しか生きてきていないのけど、たったの23年間でいやでもわかってきたしまった。この世界がいかにまやかし・ごまかしに溢れた世界か。
知ってしまった者、気づいてしまった者は以降、本物を探すための途方もない旅に容赦なく放り出される。放り出された世界で彼らは荒波にもまれ、時に奇跡を経験し時に目も向けられない状況にも遭いながら、自分の目と勘を自分で鍛えるしか道はない。
まやかしの方が多い世界で本物といえるものを自分の目で見つけて取り出す作業は、相当な体力と勇気と知恵がいることなのだ。ゴミ山からひと粒のダイアモンドを見つけるよりも難しい。

まやかしや、ごまかしに埋もれて本来の姿がわからなくなってしまう...そんなおそろしいことになるくらいなら、多少周りから理解されず孤独になったとしても、常に正気を保って冴えた頭と目で本物を見極める訓練を重ねた方がよっぽどマシだ。多少キツくてもいい。私はそういう生き方をしたいし、そういう毎日を送りたい。本物を見極めるべき対象は人、もの、こと、自分の感情や意志、ぜんぶ。だから私の人生モードはデフォルトが修行なのだ。

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..そんなことを、こちらの美輪明宏の圧巻のパフォーマンスを見て思った。

これを見て、
美輪明宏演じる主人公の女性の人生を、誰が一言で「悲劇」と済ませられるだろうか?
旦那を、誰が一言「モラハラ夫」と済ませられるだろうか?
誰が二人の関係を「浮気」「駆け落ち」と済ませられるだろうか?

なにも一言では済ませられない。そんなまやかしめいた言葉では言い表せないひとりの人間の人生が、ここだけではなく本当は世の中どこにだって転がっているのだ。

「いいも悪いも決めるな、ありのままに現実を見ろ、人生を見ろ。これが生きること、これが愛することなのだ。」美輪明宏氏のそんなメッセージが、美しい母性を伴い、力強くこちらに訴えてくるような気がした。まだまだ修行中の私だが、さすがにこのパフォーマンスは本物だと思った。
こういうものをもっと粒度高く、敏感に感じ取れるようにならないといけない。本物に対する嗅覚をもっともっと高めたい。

そんな私にとって、まやかし、ごまかし、あまやかしは本当に厳禁なのだ。これだけは常に自分に言い聞かせ、ストイックに貫き通したい。


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