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料理の時間

人間は「料理」という行為から離れられないような気がする。というかほんとうは、離れてはいけないはずだ。自分が口にするものを、自分で火に通す。自分で焼いて、自分で味付けをし、自分で更に盛る。めんどうで、果てしなくて、永遠とつづくループのように感じられるこの作業から、どんなに頑張っても私たちは逃れられることはできないと思う。いろんな悩み事や考え事、頑張りごと、うれしいことは、すべてその上に成り立っているからだ。

そんなことを言う私は、普段あまり自炊をしない。疲れて家に帰ると、とてもじゃないが台所に立つ気力がない。帰り道にあるなじみの店に寄り、食事とも言えないような「空腹を満たす行為」のようなものをしてさっと家に帰るだけの毎日。基本はそうだ。

けれどもそんな生活をずっとつづけていると、今度は体の調子が少しずつ、目に見えないレベルで悪くなっていく。体、ごめんよ、ありがとうという気持ちになる。

学生の頃からこの手の過ち、つまり、ひどい食生活でお肌を荒らすとか、風邪をひくとか、体重が増えたり減ったりすることを繰り返してきたせいか、なんとなく今は食べ物からくる体の調子に敏感になるようになった。おかげで今は「内臓がちょっと疲れている」くらいで気づくようになった。(!)

最近がまさにそう。疲れに任せて毎晩豪快に酒を飲み、外食で貧相な食べ物を口にする生活を数週間つづけた結果、なんとなく朝の目覚めが悪くなり、内臓のうちがわの方に倦怠感のようなものを感じるようになった。
特に痛いところや悪いところはなかったけれど、自分の体には細かい優れたセンサーがあるらしく、それがここ1,2週間くらいから、やんわりと黄色いランプが点灯するようになっていた。

愚かな私はそこではじめて、「自炊」という、なににも代えられないお薬を体に処方する。

こういうときは、小さいころほぼ毎日飲んでいたお味噌汁をつくる。具はその時に食べたい野菜を全部入れる。

料理は2つの意味で、いい。
ひとつ、栄養があるものをたくさんつくって体に与えてあげることで、荒れた体内環境(適当に言う)が調整されるような気がすること。つまり調整。
ふたつ、無心になれること。私の生活の中で、料理ほど手先に触れるものが豊かな作業はない。普段はこのPCかコップか鞄か、おそろしいくらいに触れるものが限られる。料理は、そんな貧しい手先に新鮮なものを触らせてくれるのだ。葉っぱや根菜、ぷよぷよのお豆腐、とろとろの卵……いろんなテクスチャーがある。それらを一定のリズムで「トントントン」と刻んでいくだけで、なんだか落ち着く。仕事の考えごとや、静かにならない頭の中のひとり会話を、一瞬でも忘れられる時間になる。

もうひとつあった。

それはスーパーでの買い物。
外食ばかりしている私にとって、せっせと食材を選んでカゴに入れていくスーパーの「生活者」たちの様子は、なんだかハッとさせられるものがある。いそがしそうな誰かのお母さんや、ゆっくりと手元のメモを見ながら選ぶ老人たち、仕事帰りの真面目そうな会社員。彼らを見ると、「いけない、遠くへ行き過ぎてた。こっちが本当なんだ。」と思う。生活というものは、常にこっち、スーパーで食べ物を選んでいる人たちの中にあるんだ、と思わされるのだ。

あれが、暮らし。あれが、生きていくということ。

日々こうしてパソコンをカタカタしながら数字や文字の羅列とにらめっこして生活だと、なんだか遠い世界へ行っているような気がする。会ったことのない人のことをあれやこれやと議論して、行ったことのない場所や見たことのないものをあれやこれやと検討する。ベラベラと知ったげにしゃべる。そういう場所に「生活」というものはない、本当は。

本当の生活や体は、これから食べるものを選び、考え、工夫して料理することのサイクルにある。今日着たものを洗濯して、干して、畳んで、またタンスから引っ張ってきて、また袖を通すこと。毎日歩いている床に少しずつたまっていくゴミやチリを性懲りもなく掃除すること。その果てしなく、しかしけっしてスキップできない地味な行為にこそ、生活のすべてが詰まっている。

なかでも、避けて通れない食をつかさどるスーパーは、そんな「生活」というものが最も顕著に現れる場所だと思う。

「ああ、この人たちはこれから、それぞれの家に帰って、火をつけて、具材を切って、味付けをして、皿に盛って、なんでもない話を家族や自分自身としながら、腹を満たすんだ・・・」

そんなことを、スーパーに行くたびにいちいち新鮮な目でみてしまう。生活をきちんと送っている人を見て、なんだか目が覚めるというか、ホッとするというか。

だからこれから毎日料理しよう、という話ではない。

きっと私は体内環境が整いしだい、また無茶苦茶な食生活をしはじめるのだろう。

でも、しばらくすればまたここへ戻ってくる。絶対に料理をしたくなる。それは自分でつくった手料理を、体が求めるから。私の自我ではなくて、あたたかくて、純粋でシンプルで、愛と栄養のあるものを求めるように私たちが生きているから。

私はまた台所へ立つ。「生活」という実感を取り戻すために。自分は社会のために働いているロボットではなく、そもそも生きている人間、生き物なのだということを思い出すために。



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