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体験にお金を払うというラグジュアリー

世界でいちばん好きなバンド、MONONOAWAREのライブに行ってきた。

自分が好きなバンドのライブに行くと、つくづく言葉の無力さを感じる。
ふだん私はなんでもかんでも言葉にする(してしまう)ことを生業にしているというのもあり、気を抜くとすぐに「ワハハハハ!言葉はむてきだ!なんだって言い表せるんだぜ!」と調子をこいてしまいそうになるのだ。たまにこうして言葉の無力さにぶちのめされないと、言葉や表現に向き合う態度が傲慢になってしまう。良いトレーニングだと思う。

今日のライブも最高だった。実は今日のライブは今年1月に行われる予定だった公演のふりかえだったのだ。ライブ直前にメンバーの新型コロナウイルス感染がわかり、4ヶ月後の今日行われた。
普段はMCをちょくちょく挟むはずのヴォーカルも、今日はほぼ喋らずノンストップ。MONONOAWAREは毎度光の照明がとっても良いのだけれど、今回は光もさることながら曲のアレンジも最高だった。メンバーたちが完全に音の世界にいってしまっていたのもよく、4人でグルーブに酔いしれている様子を、私たち観客が蚊帳の外から静かに見守っているだけの空気も、音楽に対して真っ当でピュアでとてもよかった。本人たちが楽しそうに演奏をしている様子を見るのは何よりも嬉しいし、楽しいもの。私はこのグループがなくなるまで、いやなくなったとしても一生応援し続けるだろう、そんなことを再認識した良いライブだった。

私の持論でいうと今の社会はかなりビンボーになっているので、人々は(自分を含め)どんどん即物的・速攻的なものを求める傾向になっている。
どうせ高いお金を出すのなら、目に見えて効果のあるものを。コスパが良いものを。わかりやすく自分のタメになるものを。そういう目的に囚われすぎている金の使い方が主流になっているのを見ると、いよいよ私たちもビンボーだなあと思うのである。得体の知らないものにお金をかけようとしなくなる、現代人のコスパ症候群。

その点、ライブはどうだろう。
今日の帰り道、ふと「私はライブの何にお金を落としているのだろう」と考えてみた。
大好きなバンドのメンバーに生で会えること。生の爆音で大好きな音を浴びれること。大好きな音楽に合わせて自由に身体を揺らせること。その場でしか聞けないボーカルの言葉。大好きなグループが末長く続いて欲しいから、彼らの活動の資金源として微力ながら貢献したいというい思い。

どれもある。どれもあるけど、どれもファジーだ。明確な理由など何一つない。現代が激しく求めている即効性も、わかりやすくタメになるようなものもひとつもない。それなのに、私はたった一回のライブに5,000円以上を払っている。なぜ数千円も払ってバンドのライブに行くのか、詳細な理由を自分でも認識できないまま、私は1年に何回も彼らのライブに足を運んでいる。

結局のところ、私は「なんでお金をかけているかわからない」お金の使い方の魅力に気づいているのかもしれない。ただただ、目的や理由から逃れたいだけなのだ。
ビンボーな時代には必ず行動の理由が求められるのだが、それをやる理由をうまく答えられない時、きっと人は背徳感と背中合わせの幸せを感じている。なんでライブにわざわざ行くのか、結局時間が経てば経つほど記憶の彼方に消えていく危ういものに、なぜお金をかけるのか。私だって理由はよくわからない。でもライブに行きたい。言葉ではうまく説明できないけれど、彼らのライブが好き。それでいいじゃないか、と思う。

演劇やライブなど、体験という背徳まじりの現代のラグジュアリーを精一杯味わうのが好きだ。体験投資という言葉ほど、現代のコスパ主義で排除されやすいものはない。だからこそ体験へのラグジュアリー感が増す。

今夜浴びた音の体験は、この社会が欲しているような有益性とはかけ離れたものだと思う。目に見えて得にもタメにもならないだろう。受け手の意識次第ではただの騒音にしかならないかもしれない。けれど私の奥深いところで、この経験は私という人間の「旨み」としか言えないものを形づくっているのだ。まだまだ味のある大人からは程遠いけれど、これを地道に積み重ねていくうちに、きっとおもしろい人間になっていくに違いない。
もはや、そこに賭けるしかない。(し、そもそもそんな目的を持って音楽を聴きにいくのもなんだかヤラシイ話だ)

効果の確証はないけれど、勇気を持ってファジーなものにお金をかけること。飛び込むこと。
ビンボーな社会に負けない、食われないコツはそこにしかないような気がしている。

こんな世の中だからこそファジーなものを、とことん愛そうじゃないか。


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