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頭の中で言葉が大量に・常に浮遊している。というか、口を開かず1人ですっと何かのお喋りをしているといったほうがいいかもしれない。常に言葉が流れている。ニコニコ動画のように。
何かを見たり聞いたりしても、どうやら私にはそれを即座に全て言葉に置き換えて認識したり解釈しようとする癖があるらしい。精度はさておき、何かを言葉以外のもので表現したり理解することは、私にとってはほぼ不可能かもしれない。それはつまり、言葉じゃないものを認知する能力が圧倒的に足りてないということなのだろう。
私は言葉という鎖にがんじがらめになっている。

最近、そのせいで勝手に傷ついたり落ち込んだりすることが多い。

これを教えてほしいとお願いすると、そっけない対応をされて落ち込んだ。純粋な興味で聞いた質問に、期待するほど答えてくれなかった。
私が思う「A」という言葉へのイメージと、相手が思うイメージが違って、勝手に引っ掻き傷を負った。

言葉のやりとりの中に生まれる、無礼とも雑ともまた違う、もっと微妙で、わかりにくいひねり。だからこそなのか、言葉や会話にまつわるすれ違いのもの悲しさやさみしさは、その後尾を引いて心に残ってしまう。

最近、その理由が相手との言葉の距離の違いであることがわかった。
言葉との距離がごく近い私は無意識に、目の前の人がじょうずに言葉を用いて全てを伝えてくれることを望んでいたのだ。

でも当然のことながら、この世には言葉で何かを表現する人や気持ちを伝えることが苦手な人や、それを嫌いだと思う人がたくさんいる。(むしろそっちの方が多いかもしれない)

言葉を仕事にしている人ならまだしも、
そうでもない限りは、言葉で何かを伝えることが下手くそな人や苦手な人がいて当然である。そもそも言葉は不完全なツールだ。何かを伝える努力は怠るべきじゃないと思うけれど、「私に伝わるように話してよ」というのはかなりおこがましいリクエストだったな、と今は思う。



……と、いう正論は、私も重々承知だ。
でもなんだろう、その正論をもってしてもすっきり解消されないこの物悲しさは。一生突き放された感じは。

私はなんでも言葉にしてしまうし、言葉でしか世界を認識できない。そんな人間と、言葉ではけっして世界を認識できない人は、いったいどうやって仲良くすれば良いのだろうか。心を通じ合わせるまでの道のりは絶望的に果てしなく、辛く、苦しく見えてならない。

そのために音楽がある、そのためにボディコミュニケーションがある、そのために絵があるじゃないか、はたまた「無理に言葉にしないでいいじゃないか」と人はよく言う。

それで、「そっかあ! 」とならないのはなぜなんだろう。なぜこんなにモヤモヤしてしまうのだろう。なぜ意外と悲しんでしまっているのだろう。

「他人とはけっして分かりあえない」という言葉が、今の私にはとてもおそろしい響きに聞こえる。



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