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半径3メートルのこの場所が、わたしの編集「部」だった


「それでは最後にお聞きします。強く編集者になりたいと願う三浦さんが考える『編集』とはどんなものですか?」


思わずガッツポーズしそうになった。

偶然にも、最終面接の前日に想定していた質問だったからだ。手元のメモに少しだけ目線を落とし、堂々と口にする。

「編集は、『もっと好きになってもらうこと』だと思ってます」

自信があった割にはわかるようでわからない、曖昧な定義だ。

それでも当時、大学を出て間もないわたしにとっての「編集」はそういうものに見えた。

好きなバンドの言語化できない魅力を、ズバッと言葉で捉えた記事。大好きな地元・広島の良さが綴られた名エッセイ。好きなクリエイターがつくったコロナ禍のフリーペーパー。

どれも、「読めばもっと好きになる」ものばかりだった。わたしが思う・願う「編集」とは自分がそうだったように、取材した対象を読者が「もっと好きになる」ものをつくることだと思ったのだ。

「そんなふうにわたしも編集できたらと……思っています」

それから数ヶ月後、わたしは編集とイベントの会社・ツドイ の神保町オフィスにいた。最終面接に通り、晴れて編集者としてツドイで働くようになったのだ。

そこからは色んな編集に携わった。メガネのJINSさんによるオウンドメディア「JINS PARK」では4ヶ月ごとに編集長を考えたり、インタビュイーを決めたり、タレントさん同士の日程調整やオファーのお手紙を送って取材に漕ぎつけたり。いちばん描いてほしかった人にお願いすることができ、漫画『22世紀のふつう』の編集も担当した。
学習サービスを展開しているモノグサさんによるPodcast「教えるを学ぶラジオ」では立ち上げに携わったこともある。番組名の検討から台本作成・収録まで。編集という仕事の広がりを感じた。
案件を全部書いているとキリがないので割愛してしまうが(詳しくはツドイのWORKSをご覧ください!)、どの案件でも必ず発生するのが原稿への朱入れだった。

わたしは人がつくったものに「ものを言う」のが下手だ。朱入れに抵抗を感じる編集者は意外と多いのではないだろうか。原稿を待つだけの時間に引け目を感じるという編集者もいたし、肩に力が入りすぎて原稿へのコメントが辛辣になる人もいた。「いた」というか、後者は現にこのわたしがそうだった。

原稿の編集はある意味、暴力的だと思う。

人がつくったものを変えるって、本当はおそろしいことなのだ。著者が苦労してつくったもの、意図あってそうなっているものに、編集者は過程も知らないまま「いや、こっちの方が良い」と言うのだから。ましてや朱を入れるのはこの社会人1,2年目のひよっこ。自分でも「どの口が言ってんだか」とよく思っていた。しかしそれでいてある程度の自信は持ち、「1番最初の読者」として原稿に向かわねばならない——そう思えるようになったのは、恥ずかしながらここ最近のことだった。

入りたての頃は「よし!『みんながもっと好きになるもの』をつくらねば! 最初の読者による朱字は的確なはず!」という謎の自信があった。そういうなんの裏付けもされていない、オリジナル正義をペンに滲ませて原稿へ向かうと、当たり前だがうまくいかない。ないものばかりが目につく。

「〇〇は〜〜という意味ではないです。△△△に直してください」
「もっと言い方変えられませんか?」
「この漢字はひらがなに開きたいです」

毎日送られてくる原稿に、「もっといい形があるのでは」という否定的な思いばかりが募る。新卒入社から数ヶ月間、おこがましくもそう思っていた。

そんな尖ったわたしの編集は、入社してから2年間、ほぼすべての原稿を代表の今井さんに目を通してもらっていた。コメントの内容や言い回し、朱入れの精度。まさに「編集の『編集』」だ。

最初の方はもう、それはそれは散々だった。

「指摘の書き方、なんか先生みたい!」
「ここはママで良いのでは? 『あくまで一案』とか『ご検討ください』とかの言い回しに」
「重めな提案を入れる時は、なるべく『!』(びっくりマーク)をつかって神妙になりすぎないように」

そもそも人生でひとに仕事すらお願いしたことのないひよっこが、プロの原稿に手を入れるのである。その上「もっとよくなるはず」と志だけは高い。だから無意識に礼儀を欠いているコメントも、当時はたくさんあった。

そんなタイミングで今井さんから言われた言葉が、今も頭から離れずにいる。

「編集者は、人の才能を食べて生きていく、『卑しい』仕事だよ」

ハッとした。

人の才能をおすそわけしてもらって、わたしは生きているのだ、と。おそろしくて、「自分がおもしろくしてやる」だなんて、軽々しく言えないではないか。

よくよく考えてみれば、編集者は実制作のほとんどを外部に託している。執筆はライターさん、撮影はカメラマンさん、デザインはデザイナーさん、取材の場合は何よりも主役になるインタビュイーの方。彼らとまったく同じことを、わたしはできるだろうか?

いや、できない。そこで初めて、編集者として持つべき妥当な罪悪感を持てたように思う。極端な話、編集者は自分で手を動かさずとも待っていればモノが上がってくるのだから。そのことに、謙虚にならなければいけないと思っている。たとえ自分が企画したものであっても。
そんな「卑しい」職に就くわたしができることといえば、著者さんたち一人一人が気持ちよく100%の力を発揮できるよう、調整することしかないと思った。幸い、ツドイにはそういったノウハウがたくさんある。多くのことを教えてもらった。

インタビュイーの口説き方、気持ちの良い取材づくり、そのための交渉と確認、上がってきた原稿の編集法、なかなか上がってこない原稿の対処法……。ぱっと見では気づかないくらいに小さく細やかで、とてもじゃないが全部はここに書けない。最初はわたしも「編集ってこんなにも『心』配りしないといけないのか!」と驚いた。とにかく編集者として真っ当な仕事をしようとすると、「配慮とは何か」というテーマに行き着くことを学んだように思う。徐々に慣れていくにつれ、あらためて自分はどんな編集者になりたいかを考えた。

自分が書いているとき、そしてそれを誰かに見せるとき、どんな気持ちになるだろう。一生懸命つくったものを誰かに見せるときの不安。たくさんの寄り道。先が見えない原稿に向かう億劫さ。こちらの出方をうかがっているという緊張感。そういえばこれを書いている今だって、不安で仕方がない。ツドイ編集者である野路さんからの依頼で書いているけれど、まるで暗闇をひとりで歩いているかのようにずっと心細い。

だとすれば。

「自分が著者さんをもっと有名にさせる」と意気込むよりも前に、著者さんの1番のバディにならなければいけないのではないか。つくることに寄り添う。それしかできないんじゃないかと思った。

ツドイでご一緒しているのは、すばらしい方たちばかりだ。当時編集者だったわたしの机上の空論のようなものをちゃんと形にしてくださるクリエイターの方々に、憧れすら感じるようになった。空論は、実際に手を動かす人がいないと永遠に空の上に浮かんでいるままだ。

編集者「だった」と書いたのは、この4月末でツドイを卒業したからだ。

この流れで書くと、単純に「クリエイター」というキラキラした文字に惹かれている浅はかなやつだと思われるかもしれない。自惚れているだけだと。

実際、そうなのかもしれない。
甘い響きに惑わされた、愚か者なのかもしれない。

それでもやっぱり、わたしは書きたいと思う。手を動かし、つくる人、原稿を待っているだけではなく、待たれる人になりたい。

自分がツドイに入社したきっかけでもある「執筆」という仕事に、もう一度本腰を入れて取り組む。こう思えるのは皮肉なことに、ツドイに入ったからこそなのだ。編集者としてすばらしい方々と、媒体を問わずたくさんの案件を担当できたからこそ、芽生えてきた思いだ。

退職を決意して、「また書く人間になろうと思います」と言うと、今井さんをはじめツドイの人は最初こそ驚きながらも、「いいじゃん、頑張ってね。応援してるよ」と気持ちよく送り出してくれた。心の中にあるはずの心配をグッとこらえ、夢を見させてくれるところがツドイらしいと思った。

そんなふうに飛び出したのはいいものの、何をどう書くのかはまだぼんやりとしている。だからツドイをやめてからも会社には属さず、ただ漠然と「書く人間です」としか言えていない。

でももし仮に今、書き手として原稿をお願いされたとしたら。
もし、編集者がそばにいてくれるのだとしたら。

わたしはやっぱり、この暗くて孤独な道で一緒に灯りを持ってくれる人が隣にいてほしい。駆け出しの編集者から駆け出しの「書く人」となった今、より強く思う。なぜならツドイには灯りを持ち、パートナーさんと一緒に歩いている編集者がいたから。この記事を編集する野路さんだってそうだ。ツドイは社員数が10名にも満たない、少数精鋭の小さな会社だ。でもだからこそ、彼らの姿勢を間近で見ることができた。わたしの半径3メートルにいた先輩たちの姿が、もうすでに自分の「編集者」の原型として深く染み込んでしまっている。

そんな古巣のツドイが、編集の学校を開くらしい。

わたしが2年弱、業務を通して学んだ「編集」を、体系的に学べる場所になりそうだ。

灯りを持つとはどういうことか。
人には何が灯りになるのか。
そしてその灯りは場面や人によって異なること。

上に限らず、灯りを持って歩くまでの下準備も今井さんは教えてくれると思う。

最終面接で聞かれた「編集とは何か」という問い。
これにはたぶん、決まった答えがない。編集者によっても、出版社によってもたぶん、異なる回答が返ってくる。だからおもしろい。

その意味で、わたしが答えた「もっと好きになるものをつくる」は半分くらい合っているけど、多分まちがってもいる。
編集とは何か。ツドイなりの回答——わたしが思うに、出版業界を支えてきた先輩から受け継いできた書籍・雑誌編集のメソッドを、本以外の場所でも展開していく方法とその可能性——を、ぜひ覗いてみてほしい。

そして願わくばこの学校から、いつかわたしといっしょに灯りを持ってくださる編集者の方が——いやそうなれるよう、わたしも精進します。

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