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9/7(木)日記

*絶やすな炎

この日はまたまた年上の女性とご飯へ行った。その方は編集者をしている。意外と同業の人といろんな作品をあーだこーだ言える機会は少なかったので、とても充実した夜だった。21時スタートだったけれど。

人の原稿や制作物は勝手に編集するくせに、「自分を編集」するのは驚くほど難しい。

たとえば自分がどんなものを書いたら(どうなったら)たくさんの人に記事や文章が読まれるか?
読者は私の何が読みたいのか? 
自分という意識を外から見ようとすると、さっぱり分からなくなる。「これを書きたい」という意思が先行してしまうからだろう。何年かやってると尚更。自分がつくり手になった途端、急に心細くなる。自分がおもしろいと思うものが、本当に他人もおもしろいと思ってくれるか不安になる。
けれど「誰にも共感してもらえない、自分しか分からない」みたいなユートピアをつくることも好きで、そういってるうちは「プロアマチュア」なのかもしれない。アマチュアの達人。

編集者が存在する理由はそういうアマチュアのプロをれっきとした「プロ」にするためなのかもしれない。違うかもしれない。

そんなことはさておき、その先輩から「社会人が長くなると、だんだん自分が何をしたいのか分からなくなってくるよ」と言われた。昔はもっと尖っていたけど、今は丸さを覚えたね、と。
前も同じくらいの年齢の人に言われたことがある。「尖ってていいんだよ、どうせ大人になったら丸くなるんだから。今のうちから丸くてどうすんの。将来は平坦になるよ」と。

尖るばかりではどうやら生きていけないらしく(この2年で身を持って学んだ。自分のことを尖ってるとは一度も思わなかったが)、通過儀礼のように丸さを覚えた。それは悲しいことでも辛いことでもない。むしろ「丸み」という仮面を手にして生きやすくなった気さえする。傷をつけられても平気だった。だって自分の本質ではないのだから。

大事なのはその仮面の下にあるものだ。
ずっと燃えているもの。その炎を消してはいけない。でないと私はおそらく簡単に死んでしまう。

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