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8/16(水)日記

*ノータイトル

プライベート用のマル秘日記があり、そこで自分でもよく分かっていない混沌とした感情をつらつらと書いていたら涙がこぼれて最悪な気分になってきたので、その後気分直しにとnoteを開いて知人のやっている日記を読みにきたら最近起きた某DJの最悪な事件のことが書かれててますます最悪な気持ちになった。今度こそ気分直しにと思い冷蔵庫に1本だけあった冷えたビールを飲もうとしたが、最近飲みすぎたせいかアルコールの気分になれず、結局ちびちびとアイスコーヒーを飲んでいる。
色々最悪。目の前に落とされた隕石をどうよけて歩くかに日々精一杯。砕くか?登るか?横切るか?そんなことで一杯一杯な日々。隕石を無事に通り抜けるまで耐えねばならない。元気だけど気持ちは辛い。

*絵に描いたような虫取り親子

昼過ぎに昼食を買いに出かけたら、目の前の道路をママチャリに乗った父親と小さな息子がさーっと横切って行った。父親の後ろに乗せられた推定3,4歳の息子の手には白い虫取り網を握っていて、それが気持ち良く風に膨らんできれいな三角形をつくっていた。わずか3秒くらいの出来事だったけれど、絵に描いたような「夏」だと思った。今日はお盆最終日。息子の虫取りブームに付き合っている知人の男性や、弟が小さかった頃にとにかくカブトムシ狩りに熱中していたことを思い出した。今日、目にした光景のなかでも特に印象に残っている。

*今年の漢字

年末になると、世相を漢字一文字で振り返る「今年の漢字」がお寺で発表される。逆に、「今年の目標」を漢字一文字で決め、年始から1年間忘れないようにしている、と話す同僚がいた。

気づけば今年もわずか4ヶ月を切っているが、私が目標とすべき一文字はなんだろうと考えている。

ふと出てきたのは「揺」だった。揺れる、ではなく「揺らぎ」というニュアンス。「自分はこう」って決めつけるんじゃなくて、もっと揺らいでいった方が良いのかもしれない、と最近よく思う。

今までの私は弱すぎて、自分を何かで固定させないと生きてこれなかった。クラスでのキャラづけや就活といった、社会に出る前の節々のタイミングで、「おまえは何者だ」と問われることが多かったからだ。

「私はいったい誰?」「何が好きで何が嫌いなの?」を永遠と自問自答し、ようやく手にしたもの、たどり着いた場所が今の私だ。

しかし社会人になって2年が経つと、そういう自分に対する「固定」で逆に自分を苦しめるようなケースもちょくちょく出てきている。そこをどう折り合いつけるかが非常に悩ましい。

結局のところ、固定さえすれば「楽」なのだ。あらゆる価値観やモノコトに対峙する時、「私はこれが好きだから」「私はこれが苦手だから」という軸でバサバサと情報を整理すると楽ちんなのだ。深く考えずとも、ある程度世界を整理できる(気がする)。自分ではない他人を「ちがう人」と決めつけ、その差分を埋めようとしたり、眺めたり、放っておいたり。

それに自負もある。学生の頃から自分の価値や生きる意味についてずっと悩まされていて、社会との折り合いを永遠に考え続けてきた。勉強やら趣味やらでなんとか自分の居場所を確保した。俗っぽく言うとアイデンティティのようなもので必死に身を固めていた。社会を生きるため。

自分なりにいろんなものを見て、いろんなものを読んで、いろんな人と出会って、真っ白な自分を必死に何かで埋めようとした。「空っぽな存在は許されない」と勝手に思っていたから。

今の自分を構成する要素は一応、いろんなものをテイスティングした選りすぐりのパーツだ。社会で生きていくために、一生懸命探し抜いた道具だ。
だからこそ、ようやく手にしたものを手放すのが、この調和が崩されるのが、とてもとても怖い。なんとなく居心地も悪い。そう考えるとずいぶん保守的なタイプなんだろう。また自分は空っぽな人間に戻ってしまうのか。あれだけ苦しく、途方もない「自分探し」の旅が、また始まるのか。そう思うと怖くて仕方がない。

けれど、人間はひとつの場所にい続けられない。

物理的にも精神的にも、人は絶えまなく流れ続けている。私を取り巻く今の流れが、かつてこさえたパーツだけでは太刀打ちできないことをささやいてきている。だんだんと通用しにくくなってきているし、そのせいでボロや傷も出てきている。

今年は「揺」らいでいかないといけない。難しいし勇気がいる。もしかすると4ヶ月では済まないかもしれない。

「これまでの自分にしがみつかない」ってこんなにも苦しくて、難しいことなんだと思った。











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