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8末オムニバス

*広島に帰ってきている

幼少期からたくさんの時間を過ごしてきた自室は、帰ってくるたびに小さくせまくなっていく。私の体は大きくなり、その部屋でやる作業も、考えることも、まるっきりちがうものになっている。同じ空間にいるのに、どんどんこの場所から遠ざかっていく。そのことに昔はせつなく名残惜しく感じていたけれど、そんな感傷も今ではだいぶ消え失せてしまった。

PCのキーボードを叩く目の前には、色褪せた5年以上前の参考書が並んでいる。ここにやってくるまで、思えばいろんなところを寄り道したものだ。法学部に入り、なんとかカルチャーに携われる弁理士を目指しかけたこともあったし、地元の広島でUターン就職を考えたこともあった。しかし机の横の壁には、「ヨーロッパを回って紀行を書き、ライターか編集者になる」という張り紙がある。コロナのせいで世界は回れていないが、精神的な放浪を経て大学3年の時におよそ決めていたこの道は、やはり間違っていなかったようだ。気づけば目論見通り、編集者・ライターの道の上に立っている。

今は私が理想としていた、「仕事を仕事だと思わず、ただ生きるように働く」がようやく実現されつつある気がする。
編集者はひたすらに誰かに「お願い」してまわる職業だけど、お願いしてまわりながら、やっぱり私の中で「書きたい」気持ちもむくむくと湧き上がってきた。贅沢なことだ。
明日もこれを「仕事」だと思わず、ただ「人間生活その他、息」みたいな活動として(なつかしい)、淡々とこの道の上を歩いていきたい。

*死にたい気持ち

死にたい気持ちがわからない。まだこんなところでは死んでいられない、私にはもっと本腰を入れて取り組む人生のミッションがあるんだ、という謎の使命感に包まれて生きている。

でも私が死にたくならずに済んでいるのはおそらく、頼りないがけっして馬鹿にできない人間の甘い夢を見る力、希望の力に支えられているからだ。夢だとわかっているけどやめられない、どうしようもない人間という生き物を愛せているからだ。

生きる意味がないと思わずに済んでいるのは、今のところその先に絶対に何かがあると信じられているからだし、そう思わせてくれる何か(大人であったり、作品であったり、場所であったり)に恵まれてきたから。もしその出会いがなければ、私も死にたいと思っていたのかもしれない。

なんで生きているんだろう?人生になんの意味があるんだろう?
と立ち止まりそうになったとき、私の場合、かなり傲慢に解釈する。「このあたしを産み落としたってんだから、この世界にはきっと何かあるにちがいない。このあたしを登場させるくらいの何かがあるってことなんでしょ?ね?そうでしょ?世界!!!」というオラオラマインドだ。生きるだけで修行がはじまってしまうこの世知辛い世の中に身を持って生まれてきたのだから、つまりそんな苦労を買って出たのだから、きっと何か意味があるはず、という強欲な思想を持って毎日生活している。まあ、修行は好きですし。

だから死にたいと思う人の気持ちに寄り添ったり、死を止めることはできないかもしれない。でも、私が根拠もなくふわふわと信じている「生きることはやっぱりすばらしい」という感覚がいかに脆いか、そう思えることがどれほど幸せなのかということだけは、つねに頭の片隅に入れているつもりだ。

これが、今できる精一杯。この世で絶望といっしょに生きていくためには、現状ではここまでしかできない。

*絵画的文章

言葉は意味を伝えるものなので、当然のことながら読んだ人に意味が理解されないと全く意味がない。全く持ってめんどうな奴だ。

このnoteでも常にジレンマを抱えている。もっとめちゃくちゃな文章を書きたくて仕方ないのだ。わかりやすさとか、よみやすさとか、ロジックとか、文法とか、意味とか、そんなのしらねーよ!と潔くシラを切りたい。
とにかく右から左に流れるように、何にも考えずに書きたい。それができないのは、ひとえに私の中途半端なプライドと自意識のせいだ。もうなんか、全部だめ。(急に)

画家がキャンバスに何にも考えずに筆を動かしたとしてもそれがただちに「絵」にはなるように、言葉も、手を止めた瞬間に自動的に「文章」になってほしいのだけど。

それでも、言葉は憎めない。友達以上に私の友達なので。絵の具と筆ではなく、ペンと言葉じゃないとだめ。

絵画的文章への欲望。詩でもエッセイでも小説でもない、絵のような文章を書きたい。もっと正確に言えば、絵を描くように文章を書きたい。

自由な言葉の世界を、もうかれこれ3,4年探している。



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