見出し画像

竹本将太という“異質”な大学生の挑戦。関西学院からスペインへ。


---------------------------------

☆本記事は無料になります。今回フォーカスする竹本将太選手を少額でも応援したい!と思った方は本記事を購入していただければ幸いです。その売上は全て、彼が実施中のクラウドファンディングのリターン購入へ使用させていただきます。


※本文の転載、スクショによるSNS等への投稿は“歓迎”します。ぜひご拡散ください。

筆者の運営する「国内サッカーの現場より 竹中玲央奈のここだけの話」もぜひ御覧ください。

https://note.com/reona32/m/m68cadaa1d9be

---------------------------------



今回はこの場で、とある選手の話と、彼の挑戦への協力願いをさせていただだきたい。



偶然の、画面越しの出会い

2018年7月11日。前日からその翌日にかけて2泊3日での大阪出張の中日の夜、梅田のビジネスホテルの一室でtwitterを開いた。TLを眺めると、どうも天皇杯3回戦が行われているらしい。せっかくだから見ようかと思ってテレビを付けると、見慣れた西が丘サッカー場で.兵庫県代表の関西学院大学と東京ヴェルディの試合が行われていた。

2回戦でG大阪を延長戦の末に2-1で下し“ジャイアントキリング”を果たした関西学院大学はこの大会で注目を集めていた。このヴェルディ戦も勝利を期待をされていたのだが、結果的に0-1で敗戦。が、得点チャンスは関学のほうが多かった。ハイライトを見てもらったらそれもわかるだろう。


この試合で強く印象に残ったことが2つあった。1つは関西学院大学の29番・山本悠樹が見せたプレーの質の高さ。来年度よりガンバ大阪の一員となることが決まっているが、ヴェルディの選手を手玉に取るプレーを連発していた。

そしてもう1つが、本稿で紹介する竹本将太という選手だ。山本と同じ3年生でCBとして試合に出場していたのだが、彼が自分の脳裏に刻まれた理由はプレーではなく、その経歴だった。

力強い守備でヴェルディの攻撃をシャットアウトしたとき、画面右下に彼のプロフィールが出た。そこにでききた前所属名が自分の目を引いたのである。


前所属:横浜市立東高校

これでピンと来る人はあまりいないだろう。神奈川県の公立高校で、サッカーが良い意味で“そこそこ”強いところだ。とはいえ群雄割拠のこのエリアで全国に出れるほどのレベルにはない。

日本一のサッカーチームを決めるこの大会で、名門大学のレギュラーとしてJクラブを相手に、東高校出身の選手が戦っている。

この衝撃度は大きく、試合中に関学サッカー部のHPで彼のことを調べたのだが、ここでまた経歴に驚く。

小学校は自分の地元のクラブチームであるあざみ野FC、中学は最寄りの隣駅からすぐにある中川西中学校のサッカー部で活動していたと。

「彼に会ってみたい」そう思ったのだが、この“会いたい人にすぐ会える”のがこの時代に生まれて良かったと思うところ。twitterを通じてすぐに彼と繋がり、大阪出張の際にはカフェで会ったり、試合を取材したり、と直接コミュニケーションをとることが増えていった。

初めて会ったときから「ちょっと変わってるな」と思ったものだ。それはもちろん良い意味で。


SNSで積極的に自分の考えを文字にしてアウトプットすることを絶やさず、専門外の知識も多様な媒体を通じて吸収しようとする。そうやって人間としての幅を広げるためにさまざまな活動をするも、目標であるプロのサッカー選手であることはブレない。

ともすればこういった課外活動は”選手になれなかった場合の保険”を現時点で作っているようにも見えるのだが、決してそういう訳ではない。そこもまた彼への興味や魅力度が高まっていく要因でもあった。

彼のような言動を示す大学サッカー部所属の選手には出会ったことがなかった。だからこそ、シンプルになぜこういう人間になったのかを知りたく、これまでの人生について聞いてみたのだが、そこで見えたものがある。

彼は決してエリートではない。

10代のうちに大好きなサッカーと向き合う中で、さまざまな挫折や劣等感を味わう経験をした。その中で「自分はどうすれば生き残っていけるのか」「今なにをすべきなのか」「何がしたいのか」を自問し続けて、常に思考を止めなかった。

ありきたりかもしれないが「若き日の挫折や特異な経験は人を強くするんだな」と思ったものである。そして、その気づきを与えてくれるサッカーというスポーツはまた、素晴らしいものだ。

そう、再確認させてくれた。


“中村憲剛が示した”将来の姿

「小学校の時に横浜FCの強化カテゴリーに受かって1期生となれたんです。小学5.6年でやっていたのですが、中学に上がるときにジュニアユースに昇格できなくて、そこで横浜FC鶴見を紹介されて、入ったんです。ただ、入って1年で『俺の高卒プロはないな』と思いました。

サッカーを本気でやってきたのでプロになりたかった。その中で、川崎フロンターレの中村憲剛選手が中央大学出身というのを本で見て、大卒でプロになる道があるということを知ったんです。では自分はどちらかと思った時に、高卒ではないなと。高卒が無理というか、当時はジュニアユース上がれなかったことでの挫折や自分の中で少しばかりの劣等感があったので。

話を戻すと、大卒でプロになろうと決めた中で、それではある程度の学力が必要だと思ったんです。その方が選択肢も広がるのめ、大学から逆算してそれに行ける高校を考えたときに、『今から勉強しなければいけない』と思ったんです。ただ、通っていた鶴見はすごい遠い上に練習は夜遅くまでやる。これだと勉強もできない。

であれば中学でしっかりサッカーをやりつつ受験に専念して高校でやろうと。そうして通っていた中川西中のサッカー部に籍を移したのですが、自分が中2のときにインターハイ予選で東がベスト4になりました。その試合をたまたま見ていて、ここにしようと決めて勉強して入ったんです」

まず、高校選びを聞いた時点でここまで話してくれたことにも驚いたのだが、何よりも中学1,2年生かそこらで「自分は大卒でプロになる」というキャリアを決断した人間が目の前にいることが信じられなかった。

高校も選択し大卒でプロへ進む道を選んだ竹本に転機が訪れたのは、中3から高1になるまでの春休み。スペインへ1ヶ月の留学をしたのだ。

最初はバルセロナのチームに入り、その後留学生が集まるチームへ入って活動したというのだが、国籍も多様で10ヶ国語くらいが飛び回っていたという。その中には欧州の著名クラブの育成組織でプレーする選手もいた。この環境に放りこまれてしまえばレベルの差を痛感して選手としての道を諦めそうであるのだが、逆の結果となった。

「その時までは自分の中でサッカー選手というのは夢だったのですが、そこから完全に目標に切り替わりました。試合の前にスマホをいじっていたのんですが、マンチェスター・シティでやっていた選手に胸ぐらを掴まれて怒鳴られたんですよ。

言葉を理解することはできなかったですが、おそらく『お前は試合の準備ができていない。俺たちは今から闘うのに準備ができていない』というようなことをポルトガル語で言っていたのだと思います。

その時に、彼らにとっては“夢”なんかではないな、と。サッカーへの覚悟が違いすぎるなと感じました。では自分はどうなんだと考えたときに、そういう風になりたかった。そこからサッカー選手目標となって高校大学とやっていました。あの時の経験は大きかったです。」



センセーショナルな経験を経て東高校に入った後は仲間にも恵まれ、サッカー面でも総体予選でベスト4、選手権予選で準優勝と成績を残した。そして大学選びになるのだがプロへ行く前の最終段階でもあるため「最強の大学へ行こう」と決意したのだった。

そして、その当時“最強”だったのが関西学院大学だった。

呉屋大翔(今オフ長崎から柏へ移籍)を中心として年間で4冠(関西学生リーグ、関西選手権、総理大臣杯、インカレ)を達成したその年、竹本は高校3年生だった。リーグでの快進撃や総理大臣杯を目にし、受験を決意する。そして無事9月のAO入試をパスし、翌年から関西学院大学サッカー部の一員になった。

2年の春からトップチームに入り、冬にセレッソ大阪の練習に参加し、3年には冒頭に記した天皇杯があった。ちなみに、彼にとってこの天皇杯が「人生初の全国大会」なのだと。ここでプロ相手でもやれることは示し、興味を示すクラブもあった。ただ、4年生の夏に、彼はスペイン行きを決意する。その理由についてはこう語る。

「自分の中でもどかしさがありました。就職かプロか、J3ならいけるかも?と考えているのがダサいなと。あとは『オファーを待っている』という状況が違うな、と。今まで中川西中や東高校という強くないところでやっていて、それがいきなり関学で試合に出られて主将になっただけでプロのオファーを待っているという状況に浸っていた自分が嫌だったんです。

東にしろ関学にしろ、入ると決めた時は自分で環境を選んで入ったので、次もそうしようという思いでした。そうなったら、欧州4大リーグの訳わからないくらいレベルが高いところに飛び込んでやろうと思ったんですよ。その決意で関学も入ってやってこれました。それで、どこが一番外国人枠が狭いかと調べたら、それがスペインだった。だから、そこに行ってやろうと。一度行ったことあるという理由もそうですけど、挑戦したかったんです。」


そして、その思いを実現するために渡航費や滞在費を募るクラウドファンディングを彼は始めた。この選択を取った理由として“認知されること”を一つに挙げていたが、成功のために、自身が飛躍するために意図的に大きなハードルを課したとも思える。


叶えるのが困難な目標や背景にある思いや経緯を口にして広く告知すること。「成功する」と誓い、周知すること。自身の価値基準に従って進み目標を達成できるということを証明したいと豪語すること。いくら集まるかもわからない、こういった形で資金集めをすること。

どれにしても22歳の自分にはできなかったことだったし、物理的な意味で、自分が生活しているすぐ近くにこんなしっかりと考えて行動に移すことのできる人間がいたことにただただ感銘を受けた。

だから、純粋に彼を応援し期待したいと思う。

すでに目標金額は達成しているが、竹本本人は「まだまだ認知させていかないといけない」と言う。

だから、自分はこういった形で協力をする。

自分自身が思考を巡らせ導いた答えを信じ、周囲を巻き込んで目標達成へひた走る。そんな姿を22歳の若者から見せられたら、支援するほかない。

彼は、“サッカー”というスポーツを、“サッカー選手”の社会的価値を、高めてくれる可能性を大いに秘めている。

だから、少しでもいいので力を貸してあげてほしい。



ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

読んでいただきありがとうございます。頂いたサポート資金は、より面白いコンテンツを届けるための遠征費や制作費に充てさせていただきます!