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フロンターレとグランパスを経て。森一哉が東京ユナイテッドで目指すもの

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元日本代表の岩政大樹も所属したことでも知られる、東京都文京区からJを目指し邁進中の東京ユナイテッドFC。慶應義塾体育会ソッカー部と東京大学運動会ア式蹴球部の各OBを中心とした有志が立ち上げ2015年より歩み始めて6年目を迎える今年、初めて外部より監督が招聘された。

 創設メンバーであり共同代表の一人、そしてビジネスサイドでも奔走していた福田雅が2019年度いっぱいで監督から離れ(※総監督に就任)、川崎フロンターレと名古屋グランパスでトップチームのコーチを務めた森一哉がその座を引き継ぐことになったのである。

 彼はフロンターレで育成年代の指導を経験し、グランパスを含めた2つのクラブで指揮を執った風間八宏という稀代の指導者の右腕として重要な役割を担ってきた。

そして、ついに"1種年代”の監督として新たな人生をスタートさせることになった。壮大な目標を掲げ、周囲の期待を集めるこのクラブで森新監督が目指すサッカーや示したい価値とは。


20年間に渡るフロンターレ生活


--まず森さんの経歴について伺わせてください。
私は徳島市立高校出身で、2年の時に高円宮杯で優勝し、3年でインターハイも優勝することができました。高校選抜に選ばれてヨーロッパにも行ったのですが、当時のメンバーの中には、三浦淳宏さん(現ヴィッセル神戸 スポーツダイレクター)や松波正信さん(現G大阪 アカデミーダイレクター)も選ばれていました。

--徳島、ひいては四国はサッカー不毛まではいかないですがあまり強いイメージが無くて。その成績は意外でした。
僕が高校に入学する前に愛媛の南宇和高校が選手権で優勝し、四国が強い時期があったんです。ちょうどそのタイミングに僕もいました。そして慶応大学に進学し、大学卒業の年に富士通のサッカー部がJリーグ入りを目指していこうとして、フロンターレというものが出来て間もないときに入団しました。

--富士通の社員で、ですか?
いえ、僕は違いました。その時は社員とプロが混在していました。僕はプロ契約で入団したものの1年しかプレーしませんでしたが、実力がなかったので1年で退団することになりました。チームを探せばあったのかもしれませんが、もう次に切り替えようと考えていました。するとちょうどそのタイミングで、フロンターレが育成部を立ち上げることになり、スタッフとして入り、選手時代も合わせると結果的に20年間在籍しました。


--フロンターレ歴が相当長いですが、見てきた中で印象的な選手は誰でしょう?

育成年代、特に中学生年代は、その後伸びていくかどうかを見極めるのが難しい年代です。現在の活躍を、当時想像できなかったのは、仲川輝人(横浜Fマリノス所属 2019年度JリーグMVP & 得点王)です。彼の代は、個性が強い子たちが多く、その中でテルはおとなしくて一歩下がっているというような中学生でした。ただ、彼は当時から身体能力、特に一瞬のスピードは飛び抜けていました。

--「この子はすごいな」と思った子が結果的にプロにならないという方が多いのでしょうか?
どちらかといえば多いと思います。ただ、三好康児は当時から抜けていました。
ちょっと雑さはあったのですが、持っているものが違っていました。ボールを持つと、オーラをまとうような雰囲気がありました。身体の成長に伴ってスピードも出てきて、彼が中2くらいのときには「これはスゴい選手になるな」と思いました。

同期の(板倉)滉は、トップまでいけるかどうかは、当時の僕には想像ができませんでした。彼自身が色々と経験していく中で、その後ユースでさらに成長したのだと思います。元々足元の技術はありましたし、高さも1つの武器でした。現在の彼の活躍は、彼自身が努力して勝ち取ったもので、素晴らしいと思います。

--三笘薫はどうでしたか?
薫は当時からうまかったですね。相手の逆を取るのすごくうまかった。他の選手がなかなか見えていないものが見えているんだと思います。例えば、相手のちょっとした重心のズレが見えて「こっちにはもう動けないな」と感じ取ってそこに入っていく、というようなこと。それが、他の選手よりも見えていて、かつ他の選手よりも早く見えているのだと思います。だから、スルスルスルっと、抜けていけるのだと思います。


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影響を受けた唯一無二の“あの”指導者

--選手ではなくて指導者として影響を受けたのはどなたでしょうか
風間八宏さんです。今の僕の考え方は、風間さんとともに仕事をさせていただいた6年間がベースになっています。

--ですよね。それまではどうだったのでしょうか。指導者として持つ哲学といったものはあったのでしょうか。
独自の哲学というほどではないですが、育成年代のチームを任された最初のころは、勝つことを重視してやっていました。「育成年代でもこれで良いのかな」と思っていました。しかし、やっていくにつれ、これは違うなと感じ、もっともっと個人に目を向けていかないといけない、伸ばしていかなくてはいけないと感じて変わっていきました。そんな時に風間さんの解説を聞いたり雑誌を読んだりしていて、「考え方に共感する部分がとても多いな」と感じていました。

そこからは“個人の技術を高める”指導をより重視して取り組んでいたのですが、当時の僕の指導力ではうまくやれず「どうやったら良いのか」と悪戦苦闘していました。そんな中で風間さんがフロンターレに来られて、監督に就任して3年目のシーズンに、トップチームで一緒に仕事をさせてもらえる機会に恵まれました。

トップチームで、もともとうまいプロ選手たちがどんどんうまくなっていく。本質を突き詰めることで、成長していく選手の姿を毎日目にし、また、映像分析の際に風間さんの見方を近くで何度も共有できたことも大きかったです。その過程で掴めた部分もあって、子供でも大人でもそういった部分を追求すれば良いのだなと。それまで試行錯誤もありましたが、この6年間で学べたものは非常に大きく、今の僕の財産となっています。

--その中で一番“うまくなった”選手は誰でしょう?
フロンターレでも、グランパスでも、みんなうまくなっていきました。昨年までグランパスでともに戦っていた米本拓司選手はとにかく向上心が強く、いつも練習後に、風間さんの求める技術にこだわったトレーニングを黙々と続けていました。あと、和泉竜司選手は、風間さんの言葉を常に体現しようとしているのが分かる選手でした。


「風間さんの元で学んだことも出していきたい」


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名古屋グランパス時代の森監督


--6年間、風間さんと共にしてきて、今年から東京ユナイテッドに来ました。オファーを承諾した理由は。

僕はずっと風間さんと一緒にやってきて、風間さんから学んだことを、伝える、広める、繋げる、という活動をやりたいと思っていました。なので、子供達の指導や指導者養成というような関わり方を最初は考えていました。そう考えていた昨年の11月の頭ごろに(東京ユナイテッドFCから)話をもらって、自分の中でいろいろと考えて、12月中旬頃に決断しました。

--ここでやっていこうという決定打は何だったのでしょうか
共同代表の人見秀司や福田雅と直接会って話をした時の熱量。情熱。このクラブにかける想い。これが決定打です。よし、やろうと。

名古屋グランパス退団後にやりたいと思っていたことはありましたが、それをこのクラブの目標であるJFL昇格を目指していく中で、どういうふうにやっていくことができるのか、いろいろと考えていました。

このカテゴリーを勝ち抜くためにはハードワークができる選手が必要だという話にもなりました。泥臭いといってはなんですが、走り、球際も戦う。どちらかというと“キレイ”なサッカーだけでは勝てない。だから、“戦える選手をベース”に、という話がありました。そこに自分が経験してきたことを加えていこうと。

実際に集まってきてくれた選手たちを見ていると、しっかりとハードワークできるし、止める蹴るもちゃんとできる。そして、人間性も素晴らしい。そんな彼らと取り組んでいく中で、僕の中で、彼らとともに達成していけるだろう、達成できないわけがない、絶対に達成してやろうと、その想いは日に日に強くなっています。

--その中でもどういうサッカーを?
クラブがこれまで積み上げてきたものをベースに、自分が風間さんの元で学んだことも出していきたいと思っています。その中で対戦する相手チームは、うちにやらせないように前からプレスを激しくかけてきたり、後ろでブロックを作ってカウンターを狙ってきたり、さまざまな戦い方を選択してくると思います。

うまくいかないこともあるかもしれない。選手達には「今よりも1.5倍うまく強くなってほしい」という要求をしています。その中で、相手の出方も見ながら攻撃の形を変えられるようにもしたいなと。だから、ゴール前の密集地帯での崩しのトレーニングもやりますが、身長の高いFWに合わせるためのクロスのトレーニングもします。前からプレスにくる相手に対してはロングボールを蹴らなければならないときもあると思います。でも、それが“逃げ”ではなくて“攻撃の選択肢”として持てるようにしていきたいと思っています。

--チームとして福田雅前監督のイメージが大きいかなと思うのですが、プレッシャーはありますか?
プレッシャーというよりも、楽しみの方が大きいです。これから始まる戦いは、甘くはないでしょうし厳しいと思います。ですが、みんなすごく力になってくれます。選手、スタッフとともに力を合わせ、JFL昇格を成し遂げたいと思います。

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2015年から5年間指揮をとった福田雅氏


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--風間さんの元で培った“個人がうまくなる”という指導とその成果を広めていくくこと、選手が実際にうまくなっていく姿をこのカテゴリでも見せたいですね。

是非見せたいですし、そう思えていなかったら、決断できていなかったと思います。日本において、今よりもサッカー文化を根付かせていきたいんです。映画やライブなどと同じ感覚のものとして、たくさんの人たちの心にサッカーを浸透させていきたいんです。

勝つことも大事、選手やチームが好きというのも大事。でもサッカーそのものが好き、楽しい、見たい、やりたい、というふうに思ってくれる人たちをたくさん増やしていきたい。

サッカーに興味や可能性を感じてくれる人が増え、そこにお金を投じたいと思える人が増えていかなければ、サッカーに関わる仕事や、サッカーに携わる人たちが減っていってしまいます。子供たちにも夢を持ってほしい。そういう環境面の向上に繋げていくためにも、"誰が見ても面白いと思えるもの”にしていかなければいけないという使命感もあります。もちろん、そのうえで勝たなければいけません。勝つことで面白さが倍増します。

--それをこのチームでやると。
そうですね。できるかもしれないと思ったので決断しました。特に、この首都東京で成し遂げられたら影響力も大きいですから、是非やりたいと思いました。

--東京ユナイテッドFCのサポーターに対して、「今年は変わったな」というような、変化やインパクトを与えたいという思いはありますか?
そこまでは意識していないですが、見に来て応援してくれる人たちが「来てよかったな」「楽しかったな」と、毎回思って帰ってもらえるような戦いをしたいです。そのためには、何よりもまずは戦う。JFL昇格を目指して、必死で戦う。これまでたくさんの方たちが積み上げてきてくれたものをベースに、自分の経験を加え、チーム一丸となり、サポーターの皆様とともに、JFL昇格という目標をなんとしても成し遂げるために、この一年戦い抜きたいと思います。


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■PROFILE
森一哉(もり かずや)
1974年4月17日生まれ 徳島県出身
徳島市立高校→慶應義塾大学を経て1997年に創設初年度の川崎フロンターレへ入団。翌年に選手を引退し、アカデミーのスタッフに就任し、ジュニアユースの監督やトップチームのコーチを務める。2017年から2019年9月まで名古屋グランパスのコーチを務め、2020年シーズンより東京ユナイテッドFCの監督に就任した。

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