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“だれよりもイカれた追憶”チワワちゃんが生きた青春の、その退廃にあいた空虚

─東京湾バラバラ殺人事件の被害者の身元が判明した。千脇良子・20歳・看護学校生。ミキはそれが、自分の知っている“チワワちゃん”のことだとは思わなかった。

─わたしたちは、チワワちゃんの本名すら、知らなかった。

千脇良子としてではなく、彼女を“チワワちゃん”として知る人物たちの、「自分のなかのチワワちゃん」を追憶する回想録。「個々によって別々の認識を持つ渦中の人物」というミステリ性とは裏腹に、物語の本質は犯人探しではなく、チワワちゃんを取り巻いた人間たちの心情と、それを基軸にした世界観だ。

異様なほどクールな演出で魅せるオープニングは、ハタチ前後の若者をファビュラスに映しとったもの。永続しない快楽と、どこか不安定な虚無感。青春の只中にある人間のフラグメントをこれでもかと並べている。

チワワちゃんは、魅力的な体と、思い切りのいい行動力、ときには美味しい手料理という側面まで見せ、風のように登場しては瞬く間に様々な男たちを魅了していく。貞操観念が低く、おそらくは寝ても床上手なのだろうとも拝察できる。

露骨に同性に嫌われそうな人物として描写されるチワワちゃんだが、ミキはそうしない。むしろ、自分よりもチワワちゃんのほうがヨシダの彼女に相応しいだろうと、容易に認めてしまう。それがチワワちゃんの魅力でもあり、同時にミキのひととなりまで表している。

嫉妬や羨望の感情を内包しながらも、チワワちゃんには敵わないという自分をあっさり受け入れて肯定するミキは、その素直さで、どこか無感情そうながらもだれよりもチワワちゃんに寄り添う姿勢を見せる。まるで、チワワちゃんという存在のなかに、ミキ自身のアイデンティティをあてがって生きているようだった。圧倒的な輝きを放つ無敵のチワワちゃんにたいし、自己肯定感が低いミキの心はどこにだっている少女のそれだ。それを演じた門脇麦の、葛藤にも及ばないほんのわずかな気持ちの揺らぎ。もどかしかったはずなのに、チワワちゃんがいなくなったことで隙間のあいてしまった心情を表現する。この存在感を演じられる女優が、門脇麦のほかにいるだろうか?

分人主義という考えかたがある。

小説家・平野啓一郎が体系化したこの思考では、人間はたったひとつの個人ではなく、様々な人間やコミュニティにたいするいくつもの“顔”をもっていると提唱されている。そのいくつもの“顔”の集合体が、裏も表もない“個人”なのだと。

チワワちゃんもきっと、いくつもの本質を持ち、それを使い分けていたのではないだろうか。そして、千脇良子という個人でありながら、“チワワちゃん”として周囲と関わっていた彼女は、自分からも周りからも深く踏み込もうとしない関係を続けており、それは一見楽しそうに見えて、先行きのない不安を感じさせる。

外見だけで人間の本質は読み取れない。ミキは、ファッション雑誌のライターに追悼記事の取材依頼を頼まれ、“あのころ”チワワちゃんの周囲にいたかつての仲間たちに話を聞きに行くが、結果としてわかったことは「各々のなかのチワワちゃん像」でしかない。本作においてチワワちゃんの視点で物語が進行するシーンはなく、それはしかし、ミキの行動があまり意味を成していないこととほぼ同義である。結局のところ、チワワちゃんがなにを考え、どう思い、だれを好きだったのかさえ、わからないということなのだから。

チワワちゃんの死でもって青春の終わりを迎えた若者たちは、ミキというインタビュワーをとおしてその喪失感や虚無感を回顧する。チワワちゃんの周りに渦巻いた事件や闇、各自が心のうちにしまっていたチワワちゃんの人物像は、とうとう意味さえ明かされずに物語は終わってしまう。でも、それでいいと思う。それでよかったんだと思う。その明るみに我々は用はなくて、そして我々が用があるのはそこに無関心な若者の現実なのだ。

「24アワー・パーティ・ピープル」を地で3日間過ごしたミキたちは、やがてその夢から醒めてしまう。それは、自分たちが中心にいた世界が崩壊することを意味してしまう。青春だった時間が退廃し、多勢のなかのいち文脈に過ぎない自分たちを認めてしまったとき、その空虚と絶望は夢から現実へと自分たちを引きずりもどす。彼らの豪放な過去は、無意味でしかない。だからミキは、一人々々にチワワちゃんのことを訊いてまわったのだろう。自分のこの虚しさは、いったいなんだ?と問いかけるように。

それは、まるでバラバラになったチワワちゃんの身体の断片を、ミキがひとつずつ丁寧に集めているかのような光景だった。そして、それぞれの真偽不明のチワワちゃん像を繋ぎ直すとき、恋愛と人生を青春として謳歌したミキの無感情な心模様がようやく立体的に浮かびあがったようだった。自分たちの青春そのものだったチワワちゃんの存在と向き合うミキたちは、東京湾で退廃した青春に思いを馳せ、そしてそれを映像として記録する。狂騒に満ちた輝かしい豪遊を知る我々は、だからこそ、この退廃した青春に、胸が締めつけられるのだろう。

どの青春映画よりイカれてるのに、ミキたちの姿に共鳴する自分の感情を認めていることに気づく。ミキの気持ちも、チワワちゃんの気持ちも、いくつもわかってしまうこと、実はすごく内緒にしたいんだ。

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