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ハイパーポップとは何なのか、日本での印象の悪さの要因

 "ハイパーポップ"という言葉に対し嫌悪感を示す人が多くいる。(リスナー、アーティスト問わず) しかし、ハイパーポップカルチャーは大きなムーブメントであり時代を象徴する音楽ジャンルだといえるだろう。実際毎週のようにハイパーポップのイベントが開かれ若者が多く集う。ハイパーポップカルチャーというものに対して僕個人の意見、見方を書いていく(文章を書くのが苦手なので、読みにくかったら申し訳ない)
*ハイパーポップとは何なのかという議論が無駄であることは重々承知した上でこれを書く。


ハイパーポップの始まり

 2010年ごろの世間的なEDM大ブームによって電子音楽に対して世間的認知が高まり、アーティストも多く電子音楽を作るようになった。その結果、SoundCloud、Bandcampを中心としてインターネット上にはこれまでのジャンルにとらわれない電子音楽(インターネット音楽)が一般のリスナーでは追いつかないほど生成された。その多くは〇〇coreと呼ばれるものが多くインターネットミーム的な立ち位置をしており、世間的なブームとなることはなかった。その中で出てきたのが2019年5月末リリースの100 gecsによるアルバム"1000 gecs"である。

これまでのインターネット音楽同様、サンプリング文化が散りばめられたアルバム(5曲目の"stupid horse"にはジッタリンジンの"プレゼント"をサンプリングしたようなドラムとギターコードが使われている)である中で世間に対する皮肉や反抗心を感じられる。アルバム発表3ヶ月後の2019年8月spotify公式によって"hyper pop"というプレイリストが作成される。

Spotify公式のプレイリストということもあり、世界中で”ハイパーポップ”という単語が認知されるようになる。
 

ハイパーポップの背景と音楽的定義

 ハイパーポップという単語を分けて考えたい。ハイパーと言われ、私はエネルギッシュであったり、ゲームのような電子的なものを想像する。それに対して、ポップミュージックとは別名ポピュラーミュージックであり、明確な音楽的区分が難しい。そのため、この音楽はハイパーポップなのかと論争がよく起こるのだろう。ハイパーポップの背景にはEDMブーム後に生まれたポップミュージックにダンスミュージックが融合した音楽が存在する。わかりやすい例で言えばJustin BieberとNicki Minajによる"Beauty And A Beat"である。

この楽曲をプロデュースしたのはEDMブームの重要人物であるZeddである。
電子的なリードに乗せられポップミュージックがあり、わかりやすいDropが存在する。 文字通りのハイパーポップであるはずなのだが、100gecsのような感じはせず、ハイパーポップとは呼べないだろう。上の楽曲のようなdropのある楽曲は元々あるポップミュージックにダンスミュージックを足した、“ポップ+ダンスミュージック“だからなのではないだろうか。それに対し、100gecsのようなハイパーポップは元々電子音楽を作っていた人がポップを作った、”電子音楽+ポップ“の印象を受ける。

社会への反抗とハイパーポップ

 音楽ジャンルの発展はカルチャー文化からの発展だけではない。社会情勢の変化も音楽ジャンルを生み出し、発展させる。ロックはまさに社会情勢によって発展したジャンルだろう。第二次世界大戦が終わり、全ての国が産業化、テクノロジー化を掲げる中で、性解放や公民権運動など、1つではなく様々な自由を求めた人人が集まり、社会にそしてメインカルチャーとしてカウンターカルチャーが生まれた。私はハイパーポップも一種の"カウンターカルチャー"であると考える。何に対するカウンターなのか。それは碇シンジ的な内向的、社会に対する恐怖がSNSの発展によって増大し、これまで以上に殻に籠らようになった人が社会への訴えかけとして楽曲を作成し反抗する。(庵野秀明が曲を使ってたらハイパーポップみたいな感じだったのかも) もう一つの社会反抗がLGBTQ+のような性認識に対するものだろう。ロックのカウンターカルチャーの際にあった性解放以上に、強い考え方を持つ。その結果、一般人がなかなか踏み込みにくく、批判されがちなものになってしまっている。(ヒッピー文化のように)

日本のハイパーポップ

 ナードな気持ちから生まれたハイパーポップが日本では治安の悪い年齢層の低いジャンルのようなイメージとして今見られている。その多くはヒップホップが元となっているハイパーポップである。特にこの人といったアーティスト名は出さないが、ラッパーであり、出演イベントもヒップホップである。音楽構造的な見方だけをすると、確かにハイパーポップなのかもしれないが、文化的、カルチャー的には少し違うように感じる。文化的、カルチャー的な視点で言うと、若者のクラブカルチャーに近い。ここにハイパーポップとはについて書くが、ハイパーポップとは、ポップの語源である、popularityの層ではない人たちが、ポップのようなことをするということなのだと思う。(ポップはやらない)  国内で言えば、トー横にいるような社会的にpopularityではない層が、社会的な普通のようなこととして、ハイパーポップがあるのではないだろうか。

日本のハイパーポップの印象

 正直なところ日本でハイパーポップに対して良いイメージを持つ人は少なくない。これはリスナーだけではなく、アーティストの中でも自分の作った音楽をハイパーポップと言われたくないとsnsで投稿している人もいる。実際問題、ハイパーポップ系と言われるイベントに行ってみるとみんな派手な格好をしており、年齢層もかなり低く普通の格好をしていると、そっちの方が浮いてしまう。ライブ中もみんな携帯を持って撮影をしており、イベント後にはそのイベントの動画ばかりがsnsに並ぶ。日本は元々撮影禁止のアーティストが多く、今でも日本人で撮影禁止にしているアーティストは多い。そのため、撮影できるところでは絶対にしたいという人が多いのではないか。特にハイパーポップはInstagramが若者世代では当たり前になった後に生まれており、インスタ映えを狙ってライブに行く人もいるのではないだろうか。その撮影が当たり前になった結果、ライブの仕方(服装なども含め)、楽曲が内容重視ではなく、映えを意識したものが多く、音楽好きというより、映えを欲しがる層にしか刺さってないのではないだろうか。また、日本のハイパーポップで最後に書いたが、日本のpopularityな層ではないトー横にいるような人たちが多くいるため、懸念されているのではないだろうか。

これからのハイパーポップ

 このnoteを書いている現在(2024/05/27)、前まで箱パンが当たり前になるようなアーティストでイベントでも、なかなか人が集まっていないイベントを多く目にする。その中でも4/7にcircus tokyoにて行われた、kegon 1st アルバムリリースパーティーでは日本でのハイパーポップ全盛期以上の人が集まった。これまでハイパーポップという理由だけでイベントに参加していた人たちが、色々なイベントに参加するようになり、アーティストを見るという目的でイベントに行くようになったのではないだろうか。 
また、5/24〜5/26で行われたunderscores/milkfish来日公演に行ったのだが、日本のハイパーポップのイベントに参加する客層とは違い、ハイパーポップが本来もつ、ナードな感じのお客さんが多く、とても良い雰囲気と盛り上がりがあった。underscores来日は日本でのハイパーポップの終焉のような感じがした。ただ、このsnsが当たり前の時代、5〜10年以内にまたハイパーポップにかなり似た音楽が、若者の間で広まり、このハイパーポップとは何なんだろうねに似た、無駄な議論が行われるだろう。


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