ロシアのウクライナ侵略戦争の一年の日に

ロシアによるウクライナ侵略戦争から1年。ハンナ・アーレント『全体主義の起源3全体主義』を読んでいる。

 1949年に「全体主義の起源」を探るために記された本書は、「ナチズムとスターリン主義の同質性」はナチスドイツとソ連のイデオロギーと政治体制の存続をかけた死闘そのものの中に生まれ、「全体的支配機能のもつ政治構造」は「人種の名において行おうと」「「弁証法的唯物論」(=スターリン主義のこと)「の歴史法則を担ぎ出そうと、実際にはそれほど大きな大きな違いはない」と断じている。

確かに1968年英語分冊版の「まえがき」の中でアーレントは「ドイツの全体主義がヒトラーの死とともに終わったと同様に」「スターリンの死を持って(全体主義)は終わったと言うことは真実なのである」とも記している。

しかし、スターリンの亡霊が乗り移ったかのようなプーチンは、西欧との「均衡的対峙」ではなく、力による他民族の絶滅、失った領土と軍事工場の奪還、そのことを通してロシアを全体主義国会として復活を狙っているとしか見えない。全体主義の「同質性」の再現なのだ。総力戦争体制は政治を「全体主義化」する動力なのだ。

そしてさらにそれは、ウクライナロシア戦争からロシア祖国の防衛と民族の偉大さを証明するためにヨーロッパ(=NATO)との戦争となり、人類を破滅に引きずりこむ核戦争となる。これはアジア、特に極東アジアに飛び火することは火を見るより明らかだ。

あるいは、そうでなければ、独ソ戦の勝利からナチスを敗北に追い詰めたソ連の歴史過程とは、真逆な政治過程が出現する。ロシアの敗北、プーチンの失脚とロシアの「シリア内戦状態化」。大量の移民の発生。

いずれにしても悪夢である。

21世紀の今、第一次世界大戦を描いたレマルクの「西部戦線異常なし」を毎日にようにリアルな映像で見せつけられるとは思いもしなかった。首都キーウの真ん中で、戦死した人々の名前が書かれた青と黄のウクライナの弔いの小旗が無数にたなびく。我々の日常と変わりない都市の風景であるが、人々を取り巻く戦争と死の現実に心が張り裂ける。

世界戦争への道と全体主義のくびきをたつには世界の「大衆」の「蜂起」しかないが、世界的には可能性があると私は感じ、信じている。

しかし、「羊たちの沈黙」が続く日本、特に若者にはその可能性は極めて乏しいと感じる。安倍元首相暗殺ののち、政治的に注目を浴び、子どもたち、若者にも支持者が多いと言われる成田遥輔やひろゆきの差別主義言辞、沖縄へのシニシズム、高齢者への強制的安楽死政策の推奨は SNS空間の「人間」が見えない「人工的」で「冷たい虐殺」アーレントの言う多くの大衆が動員されることでしか起こり得ない、新たな「全体主義」、つまりオーウェルの「動物工場」のような近未来的ディストピアの始まりかもしれない。

アウシュビッツの合理的冷徹性とかさなる恐怖心を感じるのは私だけだろうか。

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