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レヴィナスを翻訳で読むことの意味

レヴィナスを翻訳でよむのは意味があるのか、かと言って今更フランス語を学ぶわけにもいかず、などとかんがえたのはレヴィナスの同じ文章の別の翻訳を読んで考えた。

レヴィナス 「存在の彼方へ」(160頁 村上靖彦訳)

しかしすぐさま、感受性(=享楽)の脈動である不完全な幸福の「核の解体」(denucleation nucleationは核生成)

現在を再発見する営為の彼方での、<自我>と自分自身との不一致・動揺・不眠。

わたしを苛立たせる苦痛、あるいは眩暈のなかで私を深淵のように引きつける苦痛。

この苦痛は、即自や対自として定立された自我が自分を傷つける他者を「引き受ける」ことを妨げるが、ある種の志向的運動のなかで、このような傷つきやすさにおいて同に息を吹き込む他者の転倒(同のなかの他者)が、すなわち苦痛、無意味よる意味の凌駕が生じる

それゆえにこそ意味が無意味を過ぎ超す。意味すなわち他者のための同。

(そこにおいて<自我>の核が核となる。享楽の核の解体。

レヴィナス 「存在の彼方へ」(160頁 合田正人訳)

感受性の鼓動たるこの幸福は、不完全な幸福として、たちどころに「核分裂」してしまう。

かくして、<自我>と<自我>自身との不合致、動揺、不眠、苦痛が、現在との再度の合致を超えたところでに芽生える。苦痛は自我を狼狽させる。

あるいはまた、この苦痛は一種の深淵として自我に目まいを起こさせ、自我をこの深遠に引き寄せる。

即かつ対自的に措定された自我はもはや、自分を傷つける他人を、志向的運動をつうじて引き受けたりしないために。
無意味による意味の凌駕たる苦痛が、この可傷性のうちで、自同者に息を吹き込む他人へと逆転され、意味、他人のために身代わりになる自同者のほうが無意味を凌駕しうるために。

なんとこのような地点にまで、可傷性の受動性ないし忍耐は至らなければならないのだ。

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前者は現象学の医療、看護、精神医学の専門家。統合失調症の評価でレヴィナスを読み考えている。それしても、冒頭の前者の「核の解体」と後者の「核分裂」では全く受ける意味が違う。そもそものdenucleation はレヴィナスの造語。nucleationは核生成という用語はある。核生成とは物理学の用語で、液体状態からなんの下地もないところで固体ができる現象を均質核生成 (homogeneous nucleation) と呼び、例えば,るつぼの 壁面や溶湯中の不純物粒子などから核生成を起こす.これを不均質核生成 (inhomogeneous nucleation) という。

この厳密な物理学的用語の定義からは、denucleation=「核分裂」という訳はあり得ない。強いて言えば、個体から液体に戻るという意味を補足して「脱・核生成」、「感受性」「幸福」「享楽」という流動的な精神のあり方=感性を問題にしているのだから、いきなり「核分裂」というカテゴリーをレヴィナスが選ぶはずもなく、固体的に様相される確かさから、液体的に流動する様相への精神の変化を示していると思う。確実であったものが、不確実なものへ、後段の「自我の核が核となる享楽の核の解体」からもそうとれる。

「愛は<他者>を志向する。愛は<他者>をその弱さ(faiblesse)において志向する
柔和、傷つきやすさ、恥じらい、壊れやすさ、秘匿性」

「感受性(=享楽)の脈動である不完全な幸福の「核の解体」(denucleation nucleationは核生成)」

わたしはこのように理解しました。
愛は「感受性(=享楽)」であり、その不完全な脈動(ときめき)である「幸福」の、確かさから不確かさへの突然の変化。そこに自我と自分自身の不一致が始まる。これが精神病の世界なのだと。

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