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鈴(りん)と四股


                    
 令和二年の春、御多分に漏れず断捨離をした。取り憑かれたように物を捨てた。得体の知れない不安感から逃れるように。
 情報を得るために点け放しにしているテレビから、「緊急事態宣言」なる禍々しい言葉が耳に入り、目に入り、体に入り込むまでに時間がかかった。物事に集中できず、何もしないで一日が終わる日々が二週間ほど続いた後、乱雑に物が溢れる家の中に居続けることに堪らない苛立ちを覚えた。
 本棚に収まりきらず、無造作に積まれた本の山。クローゼットからはみ出た衣類。一生かかっても使いきれない食器の数々。座る度に左斜めに傾く壊れかけのソファー。書き始めればきりがない。その全ては自分の欲望の堆積物だ。
 「こんなに買う必要などなかったのに。」
 今回の新型コロナウイルスの発生は、自分を含めた人間の過剰な欲望への警鐘なのではないか。瞬く間に地球全土に拡がったウイルス。その速さに地球の小ささを思う。この小さな地球を、人間の欲望が搔き回し傷付けている。人間は、読んで字のごとく、人と関わることで生きてゆける生き物なのに、命を守るためには人間に会ってはいけないなんて、なんと皮肉なことか。
「いい加減に目を覚ませ」とウイルスが叫んでいるように思われてならない。
 地球が怒っている。何か目に見えない大きな力が、人間の生き方への軌道修正を求めている。人間は、地球の生態系の一構成物に過ぎないのに、我が物顔でのさばり、欲望のために、侵蝕してはならない領域まで足を踏み入れてしまった。今こそ謙虚に我が身を振り返り、生き方を変えない限り人類の未来は無くなってしまうのではないか。
 痩せたら着ようと取っておいた花柄のワンピース。ウエストを絞ったお気に入りのデザインだ。今ではそこに太腿さえも入らない。泣く泣く処分した。
 子育てに奮闘していた頃、このワンピースの裾をつかんで纏わりついていた息子も、自分の家庭を持つ年齢になっている。ワンピースは無くなっても、思い出は残っているのだ。
 大切な物を捨てた涙の分だけ、ウイルスが減ってくれたら。非科学的とは判っていても願わずにいられなかった。
 二か月後、家は見違えるようにスッキリとした。物が無いと家の中の空気も清々しい。毎朝、「家族をコロナから守って下さい」と祈る仏壇の鈴(りん)の音も一段と響きが良くなる。自粛生活に入ってから始めた、ラジオ体操の後の四股の型も、回を重ねて堂に入ったものになっている。
 昨夜、夫が声を潜めて言った。
 「不思議なことがあるんだけどさ。毎朝ズシンズシンという音で目が覚めるんだよ。それが、ゴジラが歩いてるような音でさ。工事でもしているのかと思ったけど、朝の六時半にはしないよね」
 「それは気味が悪いね。何の音だろう…」
 「そうなんだ。不気味で怖いんだよ。」
 日本酒の入ったグラスを右手に持って、遠くを見つめる夫の顔を見た時に閃いた。
 「それは私の四股かも!」
 それにしても、一階のリビングで踏む四股の音が、二階で寝ている夫の部屋にまで届くものだろうか。いくら風通しが良くなったからといって、かなりの距離がある。鈴(りん)の音が四股の音を運ぶのか。
 「四股?朝っぱらから四股踏んでるの?でも判れば安心だ。まあ、昔から力士の四股は厄災を鎮めるというからせいぜい頑張るんだね。ゴジラでなくて残念だけど。」
 四股の祈りも虚しく、ウイルスは減らない。今日も、発表される数字に右往左往するばかりである。
 でも人類は、ペストやスペイン風邪など、甚大な災禍との闘いの度に社会構造も大きく変えてきた歴史がある。今度の新型コロナウイルスとの闘いでも、すでに変化の兆しはある。デジタルに疎い私でさえ、会議や習い事等もオンラインになっているのだ。
 在宅時間が増えて、家事を丁寧にするようになった。整理整頓したことで捜し物の時間が減って、仕事がはかどる。そして何より、無駄な買い物をしなくなった。
 不安に怯えるのでなく、身の回りのひとつひとつを変えてみる。最初は小さなことでいい。役目を終えたワンピースに別れを告げることで、クローゼットに空間が生まれた。淀んでいた空気が動き出す。家中を清々しい風が通り抜ける。鈴(りん)の音も、四股の音も、祈りの気持ちを孕んだ風になって空を吹き渡る。その先には希望に満ちた未来がある。
 夢のような甘い考えかもしれない。でも、私は一縷の望みを抱いて、これからも四股を踏む。一個人の変化が、社会全体の変化に繋がることを願って。