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ロジャー、ブライアン インタビュー(Classic Rock誌2021年3月号)

ゴールドスタンダード

ブライアン・メイとロジャー・テイラーがクイーンの50年を振り返る :「自分たち独自の才能にばかげた自信と早熟な信念を持って」世界を征服した4人の若きミュージシャンの驚くべき旅路

Dave Everley

ブライアン・メイは過去に生きる者ではない。しかし、クイーンのギタリストは最近、その存在を知らなかった古いテープを聴いている。それには自身の母校、ロンドンのインペリアルカレッジ講堂でのグループの最も初期のギグの一本が収録されている。完成からはほど遠いバンドのサウンドだと彼は言う。しかしそこへ戻り、とうに過ぎ去った時点にいた初期段階のクイーンを聞くのはエキサイティングだ。

「それをどうするか僕たちは熟考中だ」と、いつか正式に発売されるかもしれないとほのめかしつつメイは言う。「数年前なら、とても保護的な気持ちで 『これは誰も聴くべきじゃない、すごく粗いから』と思っただろう。でも、人生のこの地点にいる今は寛大な気持ちだ。当時の自分たちを恥ずかしいとは思わない。僕たちは世界に立ち向かっていた」

メイがテープで最も興味を引かれるものの一つはフレディ・マーキュリーのパフォーマンスだ。当時このシンガーはまだ未完成で、後年の最強ボーカリストではなかった。「フレディに意志やカリスマ、情熱は全てあったものの、あの声を生かす機会がまだなかった」とメイは言う。「それで僕は少々ためらっている。この段階の自分を聞いてフレディがそれほど嬉しいかどうかわからないので」。彼は一瞬間を置き、そして考え直す。「でも妙なことだが、もし彼が生きていて今ここに座っていたらおそらく僕と同じだと思う。『ダーリン、僕らは子どもだったんだよ』と」

今、テープの4人の若者は2人に減った。マーキュリーは1991年に死去、ベーシストのジョン・ディーコンは90年代の終わりにバンドと公の場での活動から引退した。残りはメイとテイラーだけ、アダム・ランバートがフロントを務めるバンドの現在形で動き続ける心臓であり、クイーンの輝かしいレガシーの管理者である。

「今も我々へのものすごい愛があるという事実には大きな喜びを感じる」と言うテイラー。「いつも驚いている」

2020年はクイーンにとって大きな年になるはずだった。ヨーロッパを横断する一連の巨大なアリーナライブが夏に控えていただけではなく、バンドの50周年記念の年でもあった。しかし、パンデミックが前者にブレーキをかける前から、メイとテイラーには後者を記念するつもりは全くなかった。

「他のみんなは祝えばいい、もしそうしたいなら」とメイは愛想よく言う。「僕たちはそれより、ここにいること、生きていることを祝う」。テイラーはもっとあからさまに言う。「俺らがどれだけクッソ古いかに注目を集めたくはなかった」

彼らが好むと好まざるとに関わらず、50年は節目である。2人は自分たちのゴールデンジュビリー(50周年記念)を祝いたくないかもしれない。しかしそれ以外の者たちには、とてつもなく素晴らしいバンドのひとつである彼らの半世紀とは祝福に値するものなのだ。

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「自分たちは本当に大成功したかった。それは愚かな虚栄心の物差しだった」 ロジャー・テイラー

新型コロナウイルスが彼のバンドの2020年の予定をだめにしたと悟った時、ロジャー・テイラーは誇りある大物ロックスターなら誰もがするだろうことをした。 自分の船で地中海を数週間旅したのだ。「クソな今年?」と彼は過去12ヶ月のことを言う。不正確ではない。「しかし自分たちは幸運な方だ。不満は言えない」

今はクリスマスの数日前で、テイラーはサリー州の自宅にいる。Zoom通話の向こう側にいても 、間違いようのないロックスターのオーラを発している。 彼は常にクイーンで一番ありのままの自分が快適なメンバーに見えたし、白い髭を生やし饒舌な今もそれは全く変わらない。「大変ではあったが、自分はどんな状況でもそこから可能な限りの楽しみを引き出そうとしてきた」とバンドと共にした50年以上の旅について言う。「人生は一度きりで、我々はそれを知っている。だから楽しむべきだと思う。そして自分は楽しんできた」

50年。どうやったらそんなことに?」と思うことはありますか?
とんでもないよな? フレディを失った後、ブライアンと俺は「まあ、そういうことだ」と思った。でもそれから、いろいろなことが重なり全てが動き続けた。バンドは終わった、そういうことだ、最高だった、と思う度に何か別のことが持ちあがる。意識的にそうしようとしたわけではない。先日、誰かに “I Want To Break Free” のビデオのYouTubeでの再生が5億回に達したと教えられた。しかもそれは(クイーンの曲で)一番多い方ですらない。

YouTubeでの再生数5億回は、昔ゴールドディスクを獲得した時と同じスリルを与えてくれますか?
それは昔の話。今は同じではない。自分はヒットチャートさえ理解できない。シングルチャートの1位は何か? 誰も気にしやしない、だろう? アルバムチャートはまだ重要なようだが。我々は最近アルバムで1位になった〔Live Around The World〕。ずいぶん久しぶりのことだった。とても感動した。励まされたね。

あなたは1968年にロンドンのインペリアルカレッジのジャズルームでブライアンと出会いました。最初から世界制覇を企んでいたのですか? それともどちらかと言えば、ギグをし、女の子と知り合うチャンスを持とうと言うことだったのでしょうか?
そうだな、それはいい選択肢だ。でも自分たちは本当に大成功したかった。当時の自分たちの愚かな虚栄心の物差しだ。でも若い時は傲慢でいて、大きな夢を持つ方がいい。偶然そうはならないから。

あなたのインスタグラムには、1969年の大晦日、あなたとフレディが2人で営んでいたケンジントンマーケットのストールにいる素晴らしい写真が何枚かあります。彼と初めて会ったのはどこですか?
シェパーズブッシュの俺のフラット。フレディはティム〔スタッフェル、クイーンの前のメイとテイラーのバンドスマイルのシンガー〕のイーリングカレッジの友だちだった。俺たちの周りのただの仲間だったんだ。彼には音楽的な野心があったが、俺たちはかなり上手かったし、彼が歌えるのかどうかよく分からなかった。ただ、やる気と、オリジナルなものを書くという決意の強さは素晴らしかった。そしてもちろん、ストールをやったのですごく親しくなった。いつも一緒で、食べるために奮闘した。

最初の頃のロジャー・テイラーとフレディ・マーキュリーの夜遊びはどんなものでしたか? 流行りのクラブなどに出入りしていましたか?
いや、そんな金はなかった。パブに行き、多分それから誰か女の子たちと会って酒をおごってもらおうとしていたのでは。

クイーン初のギグは6月27日、あなたの故郷のトゥルーロでした。何を覚えていますか?
俺の母親が赤十字にために企画したギグだった。観客は、まだ完成前でかなりとんでもないフレディをどうすればいいか判断しかねていた。

早い時期に、ジェネシスがクイーンからあなたを引き抜こうとしたというのは本当ですか?
そうだな、彼らを聴くためスタジオに招かれて、それからパブに行った。「このグループに入りたいか?」とは言われなかったが、そういう印象だった。彼らのドラマーが抜けたところだったし。みな良い人たちだったが、正直なところ音楽はピンとこなかった。自分には少々プログレッシブすぎた。実はミック・ロンソンとイアン・ハンターからは素晴らしいオファーをもらった。ハンター・ロンソン・テイラーという名前になるはずだった。いい感じだったかもと思う。

クイーンの最初の2、3枚のアルバムを聴く時、あなたに聞こえるものは何ですか?
クイーンは発達過程が長かった。最初のアルバムは自分たちにあった多くのアイデアの組み合わせだが、望むような音にはならなかった。2作目はもっと自由にできて、羽を伸ばし実験的になり始めた。3作目〔Sheer Heart Attack、1974年〕の制作時までには、ある意味目指すものに到達した。

「オペラ座の夜」をクイーンのベルトアルバムとして挙げる人は多いですが、同感ですか?
いや、そうでもない。一番幅の広いものだとは思う。素晴らしいアルバムだと思うが、自分は他の何作かの方が好きだ。

クイーンに4人の素晴らしいソングライターがいたのは幸運でした。あなた以外の3人のうちの誰かがヒットを出すと嫉妬しましたか?
絶対ない。フレディが “We Are The Champions” を書いた時、彼に「そのコーラスはすげーな」と言ったのを覚えている。誰かが素晴らしい曲を考えつくとすごく誇らしかった。ナンバーワンシングルは自分たち全員のものだった。

1978年のアルバム「世界に捧ぐ」のあなたの曲 “Sheer Heart Attack” はよく、パンクへの返答とみなされていました。でも書き始めたのは1974年ですね。
ほぼ完成していたんだが、“Sheer Heart Attack” アルバムまでにはうまくまとめられなかった。最初からずっと強烈なパンクにするつもりだった。パンクが来るとは全然思っていなかったが。

パンクと言えば、フレディ・マーキュリーとシド・ヴィシャスが同時にウェセックススタジオにいた時に出会った話は百万回語られています。
〔笑〕俺も百万回聞いている。毎回少しずつ違うな。

ピストルズは実際どんな感じでした?
彼らとは仲良くやっていたよ。シドを除いて。あいつはアホだった。ジョン〔ライドン〕はとても頭が切れた。見た目は相当攻撃的だったが、自分たちは結構仲が良かった。自分は後にニューヨークで彼と一緒に遊んだのを覚えている。

100クラブ(※ロンドンのライブハウス)でザ・ダムドやザ・クラッシュを見ましたか?
パンクのライブにはいくつか行った。ザ・ダムドはロイヤル・カレッジ・オブ・アート(王立美術院)で見たがとてもイケていた。キャプテン・センシブルは最高だと思ったね — 長身で体格のいい男がピンクのチュチュを着て。でもツバ吐きは我慢ならなかった。あれはどうしようもない。

あなたはロックスターでいることを本当に楽しんでいるようでした。クイーンの4人の中で一番、アナベルズのような派手なクラブから出てくるところをパパラッチされそうな人でした。
〔笑〕アナベルズは好きじゃなかったね。若い女の子を触りまくる年寄りの政治家でいっぱいだったから。〔ロックスターでいることは〕何も恥ずかしいとは思わなかった。「これが自分たち、これが自分だ」と。

あなたはクイーンで最初にソロアルバムを出しました。もしうまく行っていたら「よし、お前ら、俺は抜ける」となっていましたか?
ノーノーノー、絶対ない。自分たちはバンドを母艦と呼んでいた。何をしていても常に必ずそこに戻った。仲間だったんだ。ソロアーチストになりたいと思ったことはない。自分の望みはバンドの一員でいることだけ。

クイーンにとって80年代前半は激動の時代でした。“The Game” と「グレイテスト・ヒッツ」は大ヒットしましたが、それから “Hot Space” が出て、アメリカが基本的にクイーンに背を向け、その後ライブエイドでついにトップに返り咲きました。
奇妙な時期だった。“Hot Space” は好きなアルバムではない。ドラムマシンと間抜けなサンプラーがあって – あのサンプラーは世界一高価なコーヒーテーブルだった。それ以前のクイーンの作品を好きで、あのアルバムをそれほど気に入らなかった人たちのことは理解できる。いいものもいくらかあったが。何だったか思い出せない。

“Put Out The Fire” が入っていました。
あれは良かった。

それから「アンダー・プレッシャー」
自分たちはバンドとして一緒に腰を据えて曲を書いたことはめったになかったが、「アンダー・プレッシャー」は数少ない例外のひとつ。遊びでクリームのカバーをやっていたらデヴィッド〔ボウイ〕がピアノに座ってポロンポロンと弾き始めた。それで「何かオリジナルをやろう」となった。ほとんどはモントルーでの白熱した一夜で終わった。ただ、残りの大部分はデヴィッドと俺がニューヨークのパワーステーション(スタジオ)で仕上げた。フレッドが来たのはかなり後から。ブライアンは一度も現れなかった。ジョンもだ。

ボウイとはうまくいったのですか? それともたまたま同じ仕事をしただけでしょうか?
即座に意気投合した。彼はとても魅力的な男だった。めちゃくちゃ面白くて、危険なほど機知に富み、一緒にいるのは最高だった。

クイーンで一番親しかったのは誰ですか?
多分フレディ。でも全員かなり親しかった。そうでなくては。

クイーン全てのギグで会場一番の席にいたのがあなたでした。バンドが全力で飛ばしていた時、そこはどんな感じでしたか?
素晴らしかったよ。ライブでのクイーンは本物のマシンだった。そして好調な時のフレディはそれはもう素晴らしかった。ただ、これは言わなきゃならないが、ブライアンと自分は技術的には今も昔と同じぐらい上手くプレイしている。熱さや猛々しさはないかもしれないが、まだまだとてもデカい音を立てている。

1986年、ネブワースのライブがクイーン最後のギグになるという予感のようなものはありましたか?
あのツアーは自分たちにとって大きな勝利だった。いくつものスタジアムが完売、ウェンブリー2回、そして大観衆のネブワース。ただ、フレディが身体的にいい方向に向かっていないとはなんとなくわかっていた。

フレディに診断結果を告げられてから、どのように気持ちを整理しましたか?
困難をもって。しばらく病気だったのは知っていた。彼の体調は悪かった。

しかし彼との最後の数年には真の喜びの瞬間もあったようですね。
“The Miracle” と “Innuendo” の時期 、フレッドは以前の彼ではなかった。ただ仕事を続けることを望み、それが我々を本当に団結させた。彼の周りに集まり、ある意味守った。彼の死は最初は実感がなかった。ブライアンと自分はそれを乗り越えるのに5年かかった。我々は途方に暮れた。自分にとって、90年代はほぼ失われた10年だった。

ウェンブリースタジアムでのフレディ・マーキュリー追悼コンサートはあふれるほどの大きな愛に包まれました。
サン紙か何かのクズ新聞で、至って普通のレビューを読んだのを覚えている。どうかな、俺は慌ただしさの中にいた ー 何か夢の中にいるような感覚だった。エルトンとアクセルを絶対一緒に歌わせると思っていたのはよく覚えている。あれは最高だった。アクセルはもちろんリハーサルに来なかったからな。デヴィッドはやって来た。ロバート・プラントは素敵だった。ジョージ・マイケルは最高に素晴らしかった。

ジョージ・マイケルがフレディの後を継いでクイーンの新しいボーカルになるのではと噂がありました。事実の部分はありますか?
いや、ないね。そういう噂を聞いた覚えはある。でも自分たちには合わなかっただろう。ジョージはライブバンドとやるのにあまり慣れていなかった。彼はリハーサルで背後からのパワーを聞いた時、それを信じられなかったんだ。コンコルドか何かに乗っているのかと思ったと。

今も時にはフレディに話しかけますか?
自分のスタジオにいる今ここでは、彼のことを考えてはいない。でもブライアンと俺が同じ部屋にいる時は、フレディがもし部屋の隅にいたら何を言うかわかると二人とも思っている。

フレディが生きていたらクイーンはまだ存在しているでしょうか?
もちろんはっきりとは言えないが、何らかの形でまだ一緒だったと思う。フレディが(昔と)同じやり方を望むとは思わないが。クイーンがライブで演奏しているとは思わない。音楽を創ってはいるだろう。それが自分たちのやっていたことだから。そしてフレディは音楽に夢中だった。

“We Will Rock You” (※ミュージカル)上演期間が終わった後、ロンドンのドミニオン劇場の外側に立っていたフレディ像を私物化したというのは事実ですか?
その通り。ここから見える。倉庫にあって費用がかかっていたから、トラックに乗せてここに持ってくればいい、庭に置くからと言った。

ブライアンがそれを気に入らなかったというのは本当ですか?
〔笑〕自分でそれを思いつかなかったからムカついたんだと思う。

クイーンの中での口論の多くはあなたとブライアンが元だったと言うのは当たっていますか?
全くその通り。

きっかけは何でしたか?
キーチェンジ、編曲、「何でそれをやる? ボーカルが聞こえない」。フレディは素晴らしい仲裁役だった。

でも50年以上経って、私たちはここにいます。あなたたち2人がクイーンで、かつてないほど親しそうです
自分たちの関係は長く起伏のあるものだった。でも、二人は違う母親から生まれた兄弟だ。

今年は数々の健康問題で彼のことを心配したでしょう?
ああ。次から次へと彼はひどい目にあった。でも今は本当に快方に向かっていると思う。彼は今、生活のすべてを - いや、アリを救うとか、何にせよ今週やっていることを別にすれば、だが - 元気になることに捧げている。うまくいくよう願っている。

あなたたちとアダム・ランバートのツアーは大きな成功をおさめてきましたが、バンドから新しいものを聞きたいという人も多くいます。
一曲は録音した。仕上げてはいないが。とてもいいよ・・・タイトルは思い出せない。何と呼ぶかまだ話し合い中だったと思う。

クイーンの新アルバムを録音したいですか?
何かやるのはいいだろうな。その可能性は排除しない。アダムは「僕に何か歌ってほしい時はいつでも・・・」と言ってくれた。他の二人が「何かやろう」と決めたら、自分もそこにいるだろう。

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「フレディのキャッチフレーズのひとつは『僕たちは妥協しない』だった。しかしバンド内ではそれをした。だから僕たちは生き残った」 ブライアン・メイ


パンデミックがなくても、ブライアン・メイの2020年はつらいものだった。5月初め、「ガーデニングで張り切りすぎた一瞬」で臀部の筋肉に裂傷を負い苦しんだ。実際よりずっと面白おかしく聞こえるが、と彼は言う。数日後「軽い」心臓発作を起こし、それに続く胃の出血で死にかけた。「一瞬も退屈しない」と彼は顔をしかめる。幸いにも現在は完全回復への途中である。「長い上り坂だった。まだもう少しだが、大丈夫」。クイーンという大混乱の渦中、メイは常に落ち着きと理性の地点のようだった。バンドを中傷者から擁護する時は、とげとげしいと言える程度には保護的になれるが。今日、陽の降り注ぐスタジオ内の一室からZoom経由で話をしている、ロジャー・テイラーが「生まれつききちんとした人物」と描写する男は温かく魅力的だ。たとえ彼が、クイーンの半世紀を記念する祝賀幕を吊るすことへのバンドメイトの頑固な嫌悪感を共有していても。

パンデミックとあなたの健康問題以前も、あなたとロジャーは人目をひくようなクイーン50周年のお祝いはどれも避けていました。なぜですか?
僕たちとチームでそういうアイデアはいろいろ検討した ー 50歳を祝おうじゃないかと。それから、むしろただここにいることを祝おう、生きていて、演奏できることを、と思った。ロジャーと僕は今、とびきり気難しい老人だ。何か話が持ち上がると、「自分たちは本当にこれに時間を使いたいか? 残された時間はどのくらいか、人生のこの時期に本当にしていたい、その価値のあることとは何か?」となる。そして常に返ってくる答えは音楽を奏でること。

あなたたちは出会った時から大物バンドになりたいと望んでいたとロジャーは言っています。あなたもそう覚えていますか?
そう、僕たちは大きな、大きな夢を持っていた。 何もかもが欲しくて、そのために必要なものが自分たちにあると思っていた。おかしなものだよ、もし僕とロジャーだけだったら決して一緒にい続けられはしなかった。二人はいくつかの点では非常に気が合っても、それ以外の全てで正反対。意見が反対ではないトピックはひとつもない。僕たちには外交家になってくれる誰かが必要で、おかしな話だがフレディがその男だった。フレディはうわついた男だとみんな思っているが、とても実際的だった 。僕とロジャーの間に難局が持ち上がっているのを見ると、彼はなんとか切り抜ける道を見つけ出す。妥協案だ。フレディ最高のキャッチフレーズのひとつは「我々は妥協しない」だった。しかし僕たちはバンド内ではそうした。それで生き残れたのだ。

あなたたち2人の口論はどんなことがきっかけでしたか?
どんなことでも。音符ひとつ、テンポひとつ、一杯のコーヒー、窓・・・

でも今はお互いをとても好きなようです。何が変わったのでしょう?
兄弟でいるようなものなんだ。いつだって好きだったが、競い合う気持ちも強かった。あらゆるものを見てきて、近ごろの僕たちは良い部分を自覚している。そして互いを尊重している。離れているより一緒の方がよりパワフルだとわかっている。僕たちのエネルギーがぴったり揃うとマジックが起きる。

初期のクイーンはどのようでしたか? 楽しかったですか? それともきつい仕事だったのでしょうか?
楽しかったのは間違いない。機材を自分たちでギグに運び込み、懐かしのローディー、ジョン・ハリスと一緒にセッティングした。ギグの直前に出すためのポップコーンも自分たちで作った。そしてマネージャーやレコード会社の重役たちを招待した。そういう人たちはもちろん一度も来てくれなかったが。

あなたたちが何をやっているかよく分かっていない観客に向かって演奏したことはありますか?
しょっちゅうだよ。有名な話がある。ボールズパークカレッジという場所だった。彼らのパーティーのために呼ばれていたんだ。ごく小さなもので、2~300人の若者がいた。僕たちが前半をやると、彼らは「天国への階段」や「パラノイド」を何でやらないんだと思いながらこちらを見ている。インターバルでエンタテイメント委員会の書記が話しに来た。彼女は「ありがとう。すごく、すごく良かった。ただ、リクエストがあるんだけど」と言うんだ。それで「そうなんだ。リクエストは何?」と僕たち。「後半はあなたたちの代わりにディスコだけにしていい?」。だから「金はもらう・・・さよなら」だった。

早い時期に、ロジャーをドラマーにとジェネシスが彼の周りを嗅ぎまわっていました。 誰かがあなたを引き抜こうとしたりは?
ああ、スパークスにアプローチされた。彼らは「ディス・タウン」("This Town Ain’t Big Enough For The Both Of Us")というメジャーなヒットを出した後で、クイーンはちょうど「キラー・クイーン」が出た頃。兄弟2人[ロン& ラッセル・メイル]が僕のフラットに寄って言った。「いいかブライアン、クイーンはどこにも行けない。これ以上のヒットは出ない。でも自分たちは世界を制覇する」。それで僕は「ありがとう、でも結構です。僕は大丈夫だと思う」と言った。

クイーンが自信不足だったことはない、と言うのは正しいですか?
なかったと思う。自分たち独自の才能に異常なほどの自信と早熟な確信があった。

“Queen II” からの “March Of The Black Queen” を聴くと「ボヘミアン・ラプソディ」の種子となるものが聞こえます。合っていますか?
その通り。“My Fairy King” [セルフタイトルのクイーンのデビューアルバムから] にまで遡る一連のものがある。フレディの頭には最初からそういうミニオペラがあって、お父さんの職場のノートに書きつけていた。人は「彼が『ボヘミアン・ラプソディ』の素材を持って来た時ショックを受けましたか?」と言う。ノーだよ。彼は始めからそれをやっていたから。

「ボヘミアン・ラプソディ」が古典として認められているのは当然です。しかしそれが、こちらも「オペラ座の夜」収録のあなたのオペラ的な叙事詩「預言者の唄」の影を薄くさせていますね・・・
痛いところを突いてくるね。「預言者の唄」が「ボヘミアン・ラプソディ」のように広く知られたらよかっただろうが、そうはならなかった。あの曲は僕が見た夢へのはっきりとした反応だった。とても具体的な夢で、奇妙な預言者が見えて、頭の中でリフが聞こえた。

あれは悪戦苦闘だった。ロックフィールド [スタジオ] でフレディが自信満々で弾くものを聞きながら、自分にはそれほど自信がなかったのを覚えている。僕はあの曲には力が足りず、頭の中のリフを形にするのに苦戦し髪をかきむしっていた。でも、前に進むためにはやらねばならないという強い気持ちがあった。僕は年中悩み苦しんでいたと思う、そうだったよね?

ある時期、クイーンでいることがあなたには重荷であるようでした。本当のところ、楽しんでいましたか?
きついよ。グループのアイデンティティの範囲で自分のアイデンティティを生かそうと常に苦闘するから。難しい状況にいる時、自分の声を聞いてもらえないと感じるととても嫌なものだ — それは意地悪く、独善的で頑固、怒りっぽくなる動機になる。僕たちはみな何度もそのように感じた。ロジャーがそうだったのを知っているし、ジョンもだ。フレディは・・・分からないが。フレディは常に「コップには水が半分も残っている」の人だった。いや、「コップは満杯」の人だな。

でも全員がいろいろなアルバムセッションのいろいろな時点で(バンドを)去った。僕も、 “The Game” 制作時だと思うが、ミュンヘンで「終わりだ。もう2度とやるものか」と思いながらエングリッシャーガルテン(※公園の名前)を歩き回ったのを覚えている。でもそれから戻って「手袋をはめ直す」。

当時、鼻持ちならない評論家たちは全ハードロックバンドに辛い思いをさせていましたが、クイーンはそういうものを他のバンドより個人的に受け止めていたようでした。なぜでしょう?
音楽誌にはクイーンをゴミだと言っていた人たちがかなり大勢いた。そうだな、そういうのは傷ついた。僕たちは互いがいたから切り抜けられた。マスコミよりずっと、互いに対して悪意を持ったり残酷になれたりしたからね。互いに支え合って切り抜けて、とても強いファミリーグループになったんだ。

多くの批判がフレディ個人に向けられていました。今の時代なら許されないようなことも書かれました。同性愛嫌悪の要素があったのでしょうか?
興味深い意見だ。それは考えたことがないと白状するよ。人々はフレディがゲイだと知らなかった。僕たちも知らなかった。そして最初の頃はフレディもわかっていたとは思わない。ただ、彼は表面上はとても軽薄で派手、人生はダンスしながら、の人物だった。そしてもちろんそれが全てではなかった。彼が着けていた仮面だったのだが、人はそれに腹を立てたのだと思う。傲慢さだと思って。

バンドで一番親しかったのは誰ですか?
フレディだと思う。

フレディ・マーキュリーのイメージは、近寄りがたいというものでした
近寄りがたいというイメージだったが、実際にはとても思いやりのある人だった。全てにおいて薄っぺらな印象を与えたかもしれないが、彼はいつも驚かせてくれた。議論をすると数日後に「ずっと考えていたんだけど・・・」と言う。そして、話し合っていたものをさらに展開させたりその結論を出したりしている。彼は外交家だった。

あなたはかつて、クイーンでいることで「自分は台無しにされた」と言いました。どういう意味でしょう?
楽な人生ではない。甘やかされたポップスターのように聞こえるだろうが、独特のストレスがある。自分を公衆にさらして、愚かに見えるリスクをずっと背負い、バンドの残りや自分の周りの組織といろいろなバトルがあり、休む時間はない。押し流され、学友や家族から遠く離れて地球の裏側のどこかのホテルの部屋にいる。奇妙なバブルの中で生きているんだ。順応するのは簡単ではないし、いったんそうなると元には戻れない。本当にめちゃくちゃにされてしまう。

それらすべての裏側には演奏して過ごした時間があるはずです。クイーンが全力で飛ばしていた時、ステージにいるのはどんな感じでしたか?
地球上で最高の気分だ。ミュージシャンとしてそういうものを夢見るが、実際はその夢より千倍素晴らしい。あのようなつながり方のできるある種の音やジェスチャーを作り出せるという感覚は、信じられないほどすごいものだよ。

クイーンは Spinal Tap moment (※ 恥ずかしかったり笑えたりのロックの予想外、不運なハプニング。映画「スパイナル・タップ」から)が起きるには上品すぎる感じでした。そういう出来事は何かありましたか?
あるよ。最高のもののひとつはオランダでだった。王冠のような形で、ステージから宇宙船みたいに上昇する素晴らしい舞台装置があった。僕たちは “We Will Rock You” をやっていて、フレディが片側、僕が反対側にいる。その夜は引き上げ機の配線が間違っていて、上昇する代わりに一方に傾いてしまった。全体が上昇する。劇的だ。でもその後大失敗。笑うしかない。

フレディ最後の数年間での、あなたのお気に入りの思い出は?
詮索好きな目から離れたモントルーで、僕たちは素晴らしい時を過ごした。当時の僕たちは本物の家族だった。誰も中に入れさせなかった。フレディにとって最後になろうとしている時期、誰にも彼を苦しませたくなかった。当時の僕たちは、それが彼の最後の時期なのかどうかわかっていなかったが。信じられない思いがあったからね。証拠が目の前にあっても、彼が逝こうとしているとは信じない。でも素晴らしい時間だった。その最後の数年、僕たちはどんな時よりも互いを支え合った。

今も彼に話しかけますか?
彼は存在しているようなもの。誰かに質問をされて答えがよくわからないと、「フレディなら何と言うだろう?」と考える時がある。そして実際に、何を言うかわかる。かなり予測不能な人だったが、彼の脳がどう働くかは分かっていた。

彼が生きていたら、クイーンは今も存在していると思いますか?
間違いない。絶頂期でさえ、僕たちは世界各地へさまよい出ても必ず母艦に帰っていた。母艦は健在で、みんな一緒に戻ってきてはプレイしているだろう。そう確信している。そしてフレディは今もショーの一部だ。

クイーンとポール・ロジャースは予想されたほどにはうまくいきませんでした。アダム・ランバートとも同じかもしれないと不安はありましたか?
クイーン後、僕たちは活動を停止してそこから離れ、他のことをすべきだったと四六時中人から言われる。僕は「いや、違う。自分はそれを築いた一員だった。だから続ける権利がある」と思う。プレイすべきか? もちろんだよ。それは僕たちの血の中にあるものだ。「フレディの詞のいくつかをアダム・ランバートに解釈させるなんてよくできますね?」という質問が来る。そうだな、そうするからできるし、できるからそうする。それにアダムは曲を解釈してもフレディのマネはしない。曲はそうやって生き続ける。

ロジャーはあなたたちが2、3年前にアダムと新しい曲を録音しようとしたと言っていました。
それは友人からの曲で、僕らが手を加えようとしたものだった。素晴らしい曲になる要素があったが、そこを突き破れなかった。

正直、クイーン&アダム・ランバートの新しいスタジオアルバムがあることを想像したりしますか?
わからない。それが率直な答えだ。本当に、本当にわからない。何も異論はないが、今までのところはただ、実現していない。

この50年ほどと、自分の歩んだ人生を振り返る時、時には驚いたりしますか?
いつもだ。僕は今も、どこか部屋に入る時は誰も自分を知らないと仮定しがちで、自分を証明しなければと感じたりする。そういうのはなくならない。目覚めるとこうだ。「なんてことだ、あれはすべて本当に起きたことなのか?」

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