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ブライアンインタビュー(The Sunday Times 2017年5月)

ブライアン・メイ独占インタビュー : 
クイーン、放蕩、そしてフレディ・マーキュリー

The Sunday Times Magazine 
May 21, 2017
By Krissi Murison

ブライアン・メイはフレディ・マーキュリーのものまねが素晴らしくうまい。椅子に座り、身を乗り出して両手を一つに握りしめ、20世紀後半最高のショーマンの早口で短く切れ切れな(スタッカートな)話しぶりとチャネリングする。 「『思いついたんだけど・・・マイケル・ジャクソンがBadってアルバムを出しただろ?』うん、フレッド。『だからさ、今作ってる僕らのアルバムはGood にしよう』」

メイは笑う。「彼には常に驚かされた。時には素晴らしいことで、時にはそうでないことで」

1970年のクイーン誕生以来のギタリストのメイは、マーキュリーが彼に自分はゲイだと「それが明白になって何年も後に」ようやく告げたのを覚えている。「初めのころ、バンドの暮らしはギリギリだった。ホテルの個室は高すぎたので自分はフレディと部屋をシェアしていた。フレディに関してや彼が何をしているか、当時知らないことはほとんどなかった — 男性ではなかったよ、言っておくが。フレディの楽屋を訪ねてくるのがイケてる女の子たちからイケてる男たちに変わりはじめた時もはっきりわかったが、我々にはそんなことは問題ではなかった。なぜ問題なんだ? でもフレディには『なあ、もう気づいてるだろ、これとかあれとか』ととてもぶっきらぼうに言う癖があって、ある時その調子で『僕の私生活が変わったってもう分かっているだろう?』と言ったのだ」

「そしてずっと後に『僕が今病気と付き合ってると気づいているよね』と言った。もちろん我々は[彼がエイズにかかっていると]知っていたが、知りたくはなかった。彼は『このことに対処していると察しているとは思うけど、それについては話したくないし、僕らの暮らしを変えたくもない。まあでもそういう状況だ』と言い、次に進んだ」

過去の思い出を掘り起こすのがメイの最新のプロジェクトである。クイーンがスタジアムロックの王者に君臨し、世界を股にかけていためまぐるしい時代の、彼の個人的な3D写真コレクションを編んだ本だ。添えられた文章はクイーンでの経験をメンバー自身が綴ったものとしては初になる。

フレディ最後の日々や、1991年後半に亡くなる前にHIVウイルスが彼の体に及ぼしたひどい影響について読むのは身を切られるような思いだ。「問題は」とメイは書く。「彼の足で、悲惨にもそのほとんどが失われていた。彼は一度夕食の席でそれを我々に見せたことがあった。そして言った。『ブライアン、こんなものを見せてショックだろう。悪かった』。僕は『違うよフレディ、君がそんなひどい痛みに耐えていたと知らなかったのがショックなんだ』と言った」

エイズを死刑宣告ではなくした治療薬「マジックカクテル」の発見が、フレディを救うには少しだけ遅すぎたというメイの確信も同様につらい。

「たった数か月、間に合わなかった」とため息をつくメイ。「(病気が)あとほんの少しだけ後だったら、彼は今も確実に我々といただろう。とても・・・」と彼は悲しげに黙り込む。「いや、『たられば』の話はできない、だろ? そこには踏み込めない。収拾がつかなくなるから」

正直なところ、私が予想していたのは聖人ぶった老いた役立ずだった。メイはそのオンラインブログ「ブライアンの演台 Brian’s Soapbox」のおかげで「世界一気難しいロックスター」と呼ばれているのである。彼はそこで政治やマスコミ、アナグマの殺処分や動物の権利などについてご立派な意見をわめいている。同じ威張りちらしたトーンは著書にもかいま見えるが、それはタイピングによるトリックに違いない。現実には彼は大変おだやかで感じのよい人のようだからだ。

私が彼に会ったのは、彼のオフィスがあるサリー州ウィンドルシャムの大邸宅だった。書棚にはアンティークカメラや19世紀の「パンチ」誌が並び、部屋の中央には丈の長いヴィクトリア時代のクリノリンスカート  — メイのまた別の深遠なる興味の対象 — を着せられた女性のマネキンがある。

彼はサボを履き、ガーデニング用パンツと、その明るいグレーの巻き毛とほとんど同じぐらい人目をひく織物の赤いジャケットを着て入ってきた。ジャケットの下の白いシャツのボタンは、7月に70歳を迎える人物としては危険なほど下の方まで外されている。ハローを言おうと彼が近付くと、ボヘミアンチェーンのペンダントが乳首に当たってカチャカチャと音を立てた。彼はとても長身で — いや、単に髪のせいかもしれない — 実に悠然としている。

お茶が用意されると、メイが手短かに断って中座した。お手洗いか、急ぎの電話を取るのだろうと思ったが、20分が過ぎてから窓の外を見ると彼はツツジの写真を撮ろうと裏庭をよたよたと歩き回っていた。私は忘れられてしまったのだろうか? ようやく戻ってきた時には、秘蔵の貴重な「ステレオスコピック(3D)」カメラのコレクションと、自身が撮ったスライドのオリジナルが何点か入った箱を持っていた。

彼はお気に入りの中の一枚を見せてくれた。1977年、フレディとクイーンのベーシストジョン・ディーコンがプライベートジェットの機内にいる。ブロンドの女性がフレディの隣の席から彼を見つめている。

「それはメアリー、長いことフレディのガールフレンドだった」。マーキュリーのセクシュアリティにもかかわらず、メアリー・オースティンは彼との関係が最も長く、彼が「生涯の愛」と呼んだ女性だ。「二人は最後までとても親しかった」とうなずくメイ。「フレディは遺言でもメアリーの面倒を見た」

私たちはライブの前にフレディがメークをされている写真も見る。「彼をすぐそばに感じるだろう?」メイはほほ笑む。「ほとんど痛いほどリアルだ。フレディは華麗さと内気さの奇妙な混合体だった」と彼はマーキュリーの第一印象を思い出しながら言う。「自信に満ちてカラフルというイメージを既に自分の周囲に築き上げていた。レコードを作るずっと前からロックスターだったんだ。昔はダンディdandy、最近ならメトロセクシャルmetrosexualと呼ばれるだろう。クジャクのようで、自分自身のファンタジーを体現した人物だった」

マーキュリーはファルーク・バルサラとして、1946年、東アフリカのザンジバルでインド系パルシー人の両親のもとに生まれた。17歳の時、ザンジバル革命を逃れて家族とイングランドは西ロンドンのフェルサムに来る前から自分をフレディと呼び始めていた。メイが育ったのは数マイル離れた緑豊かなハンプトン。勉強の好きなひとりっ子で、のちにロンドン大学インペリアルカレッジでの天体物理学の博士課程をロックンロールの夢を追うためやめることになる(最終的には36年後の2007年、黄道帯の塵 zodiacal dust を専門に博士号を取得した)。

メイはフレディと出会った日のことを話してくれた。このギタリストはすでにスマイルという大学生バンドで活動していた。ある日、スマイルのシンガーがイーリングアートカレッジのカラフルで遠慮のない友人を何気なく連れてきてリハーサルを見せたのだ。「フレディは熱意にあふれ、テンションが高かった」とメイは思い出す。「僕らを見るのが大好きだったが、その一方で『それじゃ全然違う。ただ突っ立って床を見ているのは何で? 客のためにやったら?』って感じだった」

彼は自分がフロントマンになろうと狙っていたのだろうか?

「そうだと思う。僕を褒めちぎってくれた。『君は僕のジミ・ヘンドリックスになるべきだよ』と言って。フレディはヘンドリックスの大ファンで、彼を追いかけてどこにでも行った。まるで弟子だった」

マーキュリーをシンガーに、クイーンというバンドは誕生した。1970年代初頭、ロックバンドの観客のほとんどは床に座ってうなずきながら演奏を見ていたとメイが説明してくれるまで、私はマーキュリーと観客の双方向のやりとりがどれほど斬新だったか分かっていなかった。「最近のグループは観客のパフォーマンスへの参加を促すが、フレディが観客に一緒に歌うよう求めたのは、当時クールなことではなかった。そういうのはキャバレーで起こる類のことと思われていた。俗っぽくいうなら、我々はロックをミュージックホールと融合させたんだ。”伝説のチャンピオン” ”We Will Rock You” や ”Radio Ga Ga” を書いた理由もそれだ。意識的に、観客がライブの一部になれるようにした」

そして衣装の数々があった。メイの著書にはその美がいくつか掲載されている。前髪をたらし、ザンドラ・ローズによる白いプリーツの「羽」ケープ姿の1970年代初頭のフレディ。裸の胸に黒のレザーパンツ、黒いレザーのバイカーハットのゲイアイコンフレディ。ポルノっぽい口ひげ、盛ったウィッグ、ストラップがあしらわれたレオタードの「地中海エビ」フレディ。

 彼は袋叩きにあうのが怖くなかったのだろうか?

「いや、全然。時には、フレッド、本当にそれ着て出るのか?ということもあった。マルーンカラーのスパンコールのショートパンツが最もきわどかったと思う。でも彼は人を憤慨させるのが大好きだった。クイーンはいわば大衆バンドで、街角で我々を呼び止めて大喜びするのはたいていレンガ積み職人やトラックの運転手などだった。フレディには、誰とでもつながり、自分の内面を外に出せそうだと人に感じさせられるすばらしいやり方があった」

大胆不敵なクジャクのマーキュリー、物腰の柔らかなとびきりの頭脳派メイ。二人は正反対と思われがちだが、メイは異をとなえる。「我々はみな大物ロックスターとして世界を闊歩していたが、実は内面はとてももろかった。多分それがロックスターである理由だ。ギターを大音量で鳴らしたり、気取って歩き回りながら歌ったりするのはその大きな代償だ。自信を持ちたい、本当の自分を見つけてポテンシャルを引き出したいと望むからそうする」

生前はメイが多くの時間をその陰で過ごしたマーキュリーのカリスマ性をそれは雄弁に語っている。その後薄暗がりに消えてゆかずに、現在はマーキュリーの存命中よりさらに成功しているバンドの表看板となったことはまた、メイの戦略的な優秀さをも示している。今年の長者番付によるとメイの資産は1億2500万ポンド、そして最近の調査では50代に最も人気のバンドはクイーンである。

来年には待望のフレディ・マーキュリーの伝記映画が公開される。マーキュリー役はラミ・マレック、メイとクイーンのドラマーロジャー・テイラーも音楽のプロデューサーとして参加している。クイーンのヒット曲をベースにしたミュージカル "We Will Rock You" はドミニオン劇場で2002年から12年もの間上演された。2012年以来、クイーンはライブツアーを続けている。マーキュリーの曲を歌うのは「アメリカンアイドル」ファイナリストのアダム・ランバート(私はそうは思わないが、フレディは彼を称賛するだろうということらしい)。しかし、エリザベス女王の戴冠50年記念でバッキンガム宮殿の屋上に両足を広げて立ち、”God Save the Queen” のギターソロを演奏した2002年のメイの晴れ舞台にまさるものは何もない。屋上はメイのアイデアだった。主催者側は当初、彼が大広間をの数々をさまよい歩きながらの演奏を思い描いていたが、彼はそれではインパクトが足りないと思ったのだ。もしかすると私たちが知り得るよりずっと、メイはフレディ・マーキュリーに近いのかもしれない。

マーキュリー後のクイーンの活動すべてに姿がないのは、隠遁生活を送っているといわれるベーシストのジョン・ディーコンだ。「いや、彼とは全く会っていない」とメイは言う。「それが彼の選択だ。我々に連絡してくることもない。最初からずっと、ジョンはかなりデリケートだった。とても社交的で面白くもなれるんだが、ミュンヘンで起こったことのいくらかが相当なダメージを与えてしまったのだと思う。そしてフレディを失ったこともとても辛かったのでは。彼にはそれに対処していくのに途方もない苦しさを感じた。我々と一緒の演奏がその状態をさらに困難にするほどに」

ミュンヘンは1970年代の終わりと1980年代初期、曲作りとレコーディングのためにクイーンがこもっていた場所だ。暮らしは制御不能になった。メイは著書で、地元のバーで深酒した時期と控え目に触れている。「ウォッカ、そしてバーの女性たちのファンタジーワールドに暮らしていた」

今日の彼はもっと率直だ。「我々はみな自分を見失い、感情をコントロールできない危険な場所にいた。酒の飲み過ぎ、ある程度のドラッグ —  は自分はやらなかったが、体を大量のウォッカが通過したのは確かだ。みんな粉々になってしまった。フレディが ”It’s a Hard Life” を書いたのはそんな時だ。ビデオを見てくれ。メタファーだよ。見事で非現実的な衣装、過剰な食べ物にワイン、そして放蕩。しかしフレディはぶどうを口に押し込まれながら『人生はつらい』と言っている。あの曲を書いていたフレディは、実際にはとても苦しくエモーショナルな場所にいた」

バンド内の力関係に影響が及んだのも必然だった。「お互い折に触れ過剰反応した。全員が一度はバンドを抜けた。スタジオというのはそれでなくてもバンドにとってはきつい場所だが、我々の場合は全員が世界的ヒット曲を持つ書き手だった。珍しい例だと思う。歴史的にもそんなバンドは他にないはずだ。クイーンのあり方の ”次 ”を作って示そうとするライターが4人いたら、異なるビジョン間の争いにしかならない。 当時のライフスタイルはその争いを増幅させた」。ディーコンの場合、「ジョンはバリ島へと消え、神だか何だかを見た」という事態にまで至った。

かの有名なクイーンのデカダンスに関しては、メイの本はその惨状を軽めに取り上げようと最善を尽くしている。 だから思い出していただこう。マディソンスクエアガーデンのコンサート後のパーティでは、男性客がハイヒールにストッキングのトップレスのウエイトレスに、女性客は短パンだけの男性に給仕された(性差別的との批判を避けるため)。1981年、ニューヨークでのフレディ35歳の誕生パーティのシャンパンの請求書は3万ポンドだったと言われている。しかし最も言語道断なのは1978年、ニューオリンズでのアルバム発表パーティだ。マーク・ブレイクによる評価の高いクイーン伝によると、「服装倒錯者たち、火喰い芸人たち、踊る女の子たち、ヘビ使いたち、それに尼僧に扮したストリッパーたち」が込みだった。次に何が起きたかの話は「ぞっとする」(裸の泥レスリング、人前での大っぴらな性交渉)から「印刷は無理」までいろいろだが、おそらく一番知られているのはドワーフ(小さな人)たちの隊列がコカインを盛った皿を頭に固定して運んでいたというものだ。メイはそれを見た記憶があるだろうか?

「ドワーフの知り合いは多かった」と彼は認める。「僕は今も彼らのコミュニティと親しくしている。妻のアニタがパントマイムをやっていた関係でね。うぬぼれのように聞こえてほしくはないが、彼らの世界では僕はかなり大きい。よく一緒にパブで長い夜を過ごしたものだ」

ニューオリンズについてはこうだ。「アルバムの発表にあの地を選んだのは徹底して寛大な場所だからだ。 我々は当時 ”社会の端” と呼ばれていたところに属する人たちを多く知っていた。今はそのようには呼ばないね。LGBTBFとかなんとかだ。あのパーティにはあらゆる種類の、ぶっ飛んだパフォーマーたちが集まった。あらゆる性別の — 実にたくさんある! — だ。 楽しかったし、悪意はどこにもなかった。誰も虐待されたり付け込まれたりはしていない」 

クイーンの政治的にはあまり正しくない冗談からは、メイは距離を置きたがる。「たとえば ”Fat Bottomed Girls” だ。あの曲をとても誇りに思うが、アルバムのプロモーションの一環でフォトセッション用にヌードの [女性たちの]自転車レースをした。当時は全く罪もなく楽しいように思えた。しかし今なら面白いとは思わないだろう。多くのものごとに対する考え方が変わってきたのだ」。

クイーンのメンバーの中では、彼は全くパーティ好きではなかった。まだ学生だった時に「目標を達成したいし、自分が感じたことは全てリアルだと把握していたい」と決め、ドラッグに手をつけたことすらない。 

彼の弱さは常に「ともにいてくれる人 company  」だった。「完全なパートナーとの完全な絆 ・・・誰かと溶け合い、自分と相手の境界もわからなくなる場所」を求めて世界中を延々と探し回った、繊細で感情的に未熟な自分の性質を彼は嘆く。

そんな場所は見つかったのか?「いや、不可能だ。さまざまな時代、さまざまな瞬間にちらりと見えたことはある。でも素晴らしいフィクションにすぎないんだ、本当に」

気の毒に思ってはいけない。彼がそれを追い求めている間、当時の妻クリッシー・ミューレンは夫婦の3人の子供たちと自宅に残されていた。

「当時は全く事情が違っていた。携帯電話はなく、地球の裏側にいれば電話代はとてつもなく高かった。ツアーに出ている時の生活は、自宅での生活とは別のバブルのような感覚があった。近頃は通信手段がとてもいいのでそんなふうには思いもしない。我々は非常にエキサイティングな時代を生きてはいたが、切り離され孤独だった。未知の世界を探求していた。自分の周囲だけではなく内面も。1950年代に北西航路を探索に出かけた人々と同じだ。別世界を探検するような感覚が少々あった」

不貞の正当化としてはかなり上品なものだといえるだろう。

彼が二人目の妻、アニタ・ドブソン  — 「イーストエンダーズ」(※連続ドラマ)のクイーンヴィック(※劇中のパブの名前)初代女主人のアンジーとして知られる —  と映画のプレミアで出会ったのは1986年、まだミューレンと結婚していた時だ。ドブソンとは2000年に結婚。当初は二人が同じような巨大なプードルパーマだったのがとても面白がられた — メイのものは本物、ドブソンは今はもうかなりの間プラチナのストレートだが。本の謝辞で、メイはドブソンに「もしかするとイギリス中で最も腹が立つ男と、30年もの間」何とか一緒に暮らしてくれていることに感謝している。

「自分が簡単ではないことはわかっている」と彼は言う。「僕は常にあれこれに取りつかれている 。天文学、立体写真術、音楽、動物を救うこと・・・。こういう人間と暮らすのはひどく難しいので、彼女はメダルに値するよ。しかし彼女がたやすいと言うつもりもない。芸術家で、おそろしいほどクリエイティブな人だ。だから僕らの暮らしはいつも大荒れだった。しかしそのおかげで若くいられるのかもしれない」

最初の結婚の破綻と、父親とマーキュリーを亡くした影響で1980年代後半から1990年代初めにかけて苦しんだうつ状態について、彼は以前話している。昨年は謎の「しつこい病気」を理由にツアーをキャンセルし、クリスマスの日、「ブライアンの演台」に憂慮すべきブログ記事を投稿した。「私は根本的で痛みを伴う人生の変化のただ中にいる・・・もし君たちが数週間前に私を見たら、クリスマスまでもつかどうかと思っただろう」と書き、「身体的、精神的、またはスピリチュアル面で」苦しんでいる他の人々の助けになるよう、アプリや本の「ツールキット」を公開して祈りも送った。

彼は「クリスマス前に最悪の時期を経験し、全てを、ツアーだけではない全てを、キャンセルした」と説明する。「対処しきれないと分かったから」

彼はそれをうつと呼ぶだろうか?

「おかしなことだが、今はそうは呼びたくない。最近は『体と心』にとても気を使っている。人生ずっと運動の習慣に関してはひどいものだったが、今は決まりがある — 毎朝40分の運動をして、瞑想で締めくくる。集中しなおすのに本当に役に立つ。自分は今、より良い場所にいると感じている」

メイはマインドフル瞑想の賛同者である。マーキュリーがその病最後の日々に活用したと彼が思っている、”今この時” を生きるためのやり方だ。また、自身のメンタルヘルスについても包み隠さずに話す。「ハリー王子も似たようなやり方で打ち明けたと思うが。 オープンであるのはいいもので、自分を強くもしてくれると常に感じてきた。あなたが話してくれたおかげで自分はひとりでも異常でもないと思えるようになりました、というメールを山ほどもらうからね。タブーにしておいても何の助けにもならないと思う」

メイのプラットフォームの使い方としては、どちらかといえばニッチな関心に思えるアナグマのための熱狂的な活動よりそちらの方が良いのではと思える。では手短かに。彼は牛結核根絶を目指してアナグマを殺処分する政策に猛烈に反対する活動家である。科学的に殺処分には効果がないと信じているが、それは彼のもっと根深い確信で台無しにされている。「マーティン・ルーサー・キング師は人がみな平等に生まれるのは自明の理だと言った。僕は全ての生き物が平等に生まれるのも自明の理だと思う」

その結論へと導いた子供時代の多くのトラウマを、彼は示すことができる。自宅の外の通路に侵入してきたアリに母親が熱湯をかけるのを見た。ハチに殺虫剤DDTを噴射してから、それが地面に落ち、苦しみながらゆっくり死ぬまでブンブンいう姿に後悔しながら後ずさった。彼がもしハチの件でセラピーを受けていないならぜひ受けるべきでは。

この動物狂信は変だ。それ以外の点では、彼はとても穏やかに理性的に見えるので。その落ち着きのいくらかはフレディから学んだのかもしれない。モントルーのレコーディングスタジオでのバンドが一緒に過ごした最後の日々、痛みにもかかわらずフレディは仕事を続けようと決めていた。

「我々は普段どおりに仕事を進めた。フレディがそう望んだので」とメイは思い起こす。「彼は『何も変えたくない。僕らはいつもと同じようにやるし、それが好きなんだから問題ない』と言った。最後に近い日々は実に素晴らしかった。笑いと喜びにあふれ、フレディもいつものようにふざけていてたし、あらゆることに非常に淡々としてもいた。『ダーリン、続けるだけだよ』。自己憐憫はみじんもなかった。バラードをやりたいというのでスタジオで僕がさっと書いたものをフレディは気に入り、『何か歌詞をくれ』と言った。僕が詞を何行か走り書きしては彼がウオッカを2、3杯流し込み — その時点ではほとんど立っていることもできなかったから  — 『今やるよ、ダーリン』ってね。そして机を支えにしてその詞を歌う。(曲の)最後まではたどり着かなかった。彼に最後のヴァースを渡すと、『ダーリン、今ちょっと気分が良くない。今度また来る。2,3日で良くなるからその時にやろう』と。そして戻ってくることはなかった」

マーキュリーの死後、メイはその曲を完成させた。タイトルはマザー・ラブ、「人生を見つめて総括し、その終末を始まりと融和させる我々二人の試みだ。そのような言い方はしなかったが」

彼はフレディが今も生きていれば何をしていたと思うのだろうか?「ソーシャルメディアへの忍耐力はないのでは。僕もほとんどないが、彼はさらに我慢できないたちだった。ツイートしていたとは思わない。まだ紙切れにメモを書いていたのでは。人生の最後に向かうにつれ、フレディはどんどんひきこもりがちになった。ひとつには顔が知られるようになったからだが、病を知られたくなかったからでもあった。でも彼はどちらにしろとてもプライベートな人で、(生きていても)それは変わらなかったと思う」

マーキュリーは音楽を作ることは続けているとメイは確信している。「その創造性は持続しているだろう。彼は止められなかったし、常に驚くようなことを考えついて、実に水平思考な人だった。ロジャーも僕も、クイーンのために何かを作っていると部屋にフレディを感じ、彼が何を言うか分かるとしばしば言ってきた。彼が冷笑するか夢中になるかわかるんだ — もちろん、予測不能なのがフレディだったわけだが」

私たちはメイのうつ、不貞、ひとりの近しい友人のつらい死、そしてハチ一匹のつらい死について触れてきた。しかし、とてもデリケートなため私が最後の最後まで言い出すのを避けた話題がある。彼の髪。彼はその話を嫌がるが、あるレベルではそれが集める注目を気に入っているに違いない。そうでなければなぜ切ってしまわないのか?

「これで快適なんだ」彼は言う。「完全に本物だ。色がグレーに変化していったしばらくの間はとても不安だった。一定の様式をキープしなければ自分でなくなってしまうようで。アニタがそんな心配はしないよう励ましてくれた」

一体、切ることはありうるのだろうか?

「それで世界平和が実現できるなら明日にでもやる。アナグマ殺処分をやめさせられるなら多分明日にでもやる。アナグマ殺処分は無価値で無意味な行いで、効果もない。遅かれ早かれ政府も気づかねばならない・・・」

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メイの著書に掲載されているのは普通の写真ではない。3D写真で、クイーンのギタリストの貴重な「立体 stereoscopic」カメラの中の一台で撮影された。音楽、天文学、アナグマに並び、メイは3D 写真に大変な情熱を傾けている。最初に夢中になったのは12歳、ウィータビクス(※シリアル商品名)がおまけに立体写真のカードをつけた時だ。彼は両親に頼み込み、写真を正しく3Dで見られるビューワーの代金1シリング6ペンスを送った。「多分今の金額だと2ポンド50ペンスぐらいだろう。しかし当時僕らは貧しくて —  2.5ポンドあれば暖房と照明が相当使えた」

「立体 」写真術はもともとヴィクトリア時代の事象で、メイの著書はロンドンステレオスコピックカンパニーから出版されている。2008年に彼が生き返らせた19世紀の会社だ。彼はまた、写真を最大限に3Dで楽しむためにオリジナルのステレオ写真ビューワー「アウル Owl 」をデザインしプロトタイプも作った。「アウル」は本に付属している。「僕にとっては本当に魔法なんだ」と彼は言う。「フレディの写真をビューワーで見ると、彼は突然活気づく」

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