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死に絶える人々

上手く言語化できそうにないのですが、「死に絶える人々」という恐ろしいタイトルで書いてみます。

僕は大学院生として去年ノルウェーにきて、現在はプログラムの関係でデンマークに滞在しています。専攻はソーシャルワークです。

専攻が専攻なので、フィールドワークによる実践的な学びの機会が多いです。先月末から今月頭にかけて、クラスが2つに分かれてフィールドワークに行きました。僕が行っていない方のフィールドワークでは、いわゆるホームレスの人を支援する教会に訪問していました。

そうそう、裕福だと思われがちな北欧ですが、必ずしもそうでもないんですね。北欧ほど民主主義が進んでいて、国として経済的に豊かであるとされている(実際そうだと思いますが)地域でさえ、ホームレスが存在するわけですから、世界中どの国にもおそらくいると思います(バチカン市国のようなあまりにも小さい国は不明)。

先日、そのフィールドワークに関するプレゼンがありました。その中で、引っかかったことがあります。

「自らホームレスを選んでいる人がいる」

ここはすごく厄介なところで、自分からその生き方を選んでいるのであれば、手の差し伸べようがありません。


僕はオールボーという町に住んでいて、家は町のど真ん中にあります。それもあって、よくダウンタウンに散歩に行くのですが、アル中でぶっ倒れている人もピンピンしているホームレスの方も見かけます。



ここで、僕たち人類の足元を振り返ってみます。


今でさえ毎日当たり前のように使っているお金。その起源を振り返ると、お金以前は物々交換でした。あくまでも「尺度・交換・保存」という機能を兼ね備えていて”便利”だから使われ始めました。

資本主義という考え方も昔からあったわけではありません。あげればキリがないですが、地球に国境線なんて存在しないし、法律というルールは存在しませんでした。「首相」「大統領」って誰だよ!って突っ込むべきだと思うのですが、議論が生まれるのは「誰がそこに就くか」であって、「なんでそれ地位が存在するのか」ではありません。

今当たり前とされていて、考えることさえしないことをよくよく考えてみると、「なんで僕たちはこれに従う必要があるの?」ということばかりです。でも、人間として生まれてきてしまったからには、否応なしにそれに従わざるを得ません。自明すぎるのでそれに疑問を覚えることすらせず最期を迎える人がほとんどなはずです。

少し前まで当たり前のように毎日使っていた現金は、現在進行形で絶滅しかけています。今だにジャラジャラと財布に小銭を入れているのは日本人くらいです。お隣の超大国中国でさえキャッシュレスがかなり進んでいます(クラスメイトの重慶出身の女の子が言ってたよ、「デンマーク、そんなにIT化進んでなくね?」って)。

キャッシュレスも、あらゆる電子化される手続きも、最初に始めた人(国)に追随する形で、どんどん社会がそちらへ向かっています。

では、先ほどのピンピンのホームレスの人はキャッシュレスによって生活にどんな影響を受けるのか?現金が使えないはずなので、クレジットカードで払えばいいじゃん?

でもちょっと待って下さい、クレジット(credit)って「信用」って意味であることを忘れてはいけません。この人は確実にあとで払ってくれるっていう信用が担保されて成り立っているものです。だから滞納した人は「信用できない人」としてブラックリストに刻み込まれます。

この「信用」というのは、誰にとって?何のための?信用なのでしょうか。資本主義、貨幣経済(信用経済)という人為的に作り出された見えざる枠組みの中での「正義」でしかありません。

好まずともその枠組みの中で生きる人は、その中では「信用」がないので「悪者扱い」を受けてしまいます。


ここに僕は微妙に引っかかるんですね。スポーツで考えてみるとどうでしょう。僕は幼少期よりバスケットボールをしてきたので、バスケットのルールを例にとってみます。

基本的にバスケットは手でボールを操るスポーツです。試合中にサッカーのように足を使ってしまうと、途端にレフリーの笛が鳴り、「キックボール」という反則を受けます。ボールは相手に渡り、蹴った人は間も無くチームメイトから嫌われます。

この場合、嫌われて当然です。バスケットにはルールがあり、その人は自分の意志でバスケットをやっているわけなので、そのルールに従わないと非難されます。

一方で、バスケットをする人はサッカーをする人をみて、「おい、何でボールを蹴っているんだよ」と言いません。


これはスポーツの世界の話なので、誰も横槍をいれるはずもありませんが、現実社会で、魚が欲しくて肉を代わりに持ってきた人は非難されると思います。「お前は、何時代を生きているんだ」と。


残念なことに、社会の”当たり前”に逆光する人は淘汰されてしまいます。たとえ、その人の正義が正しくとも。そして、その人は資本主義の中で生きることを”自ら選んでいなくとも”。(バスケの反則者の例を思い出してください)

身体能力だけをみると、キリンよりもサイよりも弱小の人間は知恵を使って集団でもって食物連鎖の頂点にたどり着きました。
#昨日サイが角で車を転がす動画を見ておっかないと思ったよ

こう考えてみると、僕たちが当たり前のように発している”正義”は、誰によっての正義なのかがわからなくなります。

ー強いものが勝ち生き残る
ー環境に順応する柔軟な人が生き残る

これが動物世界の常だと思います。

どんなに個で強い人であっても、集団という多数派によって作られた環境には抗えず、いずれ淘汰されます。

小惑星の衝突によって絶滅した恐竜がそうであったように。ナショナルジオグラフィックによると、あの衝突で生き延びたのは今に見るニワトリやカモの祖先みたいです。彼らは小さいながらも生き延びるだけの柔軟性があったんですね。
#短期間でむちゃくちゃ進化したらしい


自然という環境、国家という環境、自治体という環境、会社という環境、、選べる環境と選べない環境があるわけですが、何をどう選ぼうとも人間社会という大きな枠組みからは逃れることは基本的にはできず、いつもどこかで妥協点を見出さなくてはいけないものなのだと思います。

集団によって今まで繁栄を遂げてきた人類の歴史がある以上、その波に抗う者は多くの場合、いつかまんまと飲み込まれて息絶えてしまうのです。

どうしようもないこの(不)条理を、見て見ぬ振りをしながら生きていかなければいけないことをどれだけの人が深く考えているのでしょうか。


Democracy is the worst form of government except for all the others.
(Winston Churchill)

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