明日を待つ
明日11月19日は古井由吉(1937-2020)の誕生日です。あえて、前日である18日にこの記事を書くのにはわけがあります。明という、古井のよくもちいた文字からこの文章をはじめたかったからですが、その理由についても書きたいと思います。
言葉と言葉の身振り
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古井由吉は、作家活動の初期から晩年にいたるまで、「開ける」と「空ける」を書き分ける現在の標準的な表記だけでなく、そのどちらの場合にも「明ける」をよくもちいていました(平仮名だけの「あける」もつかっていましたが)。こうした書き分けない表記は、かつては広く行われていた表記だったようです。
また、古井は「明・日・月・赤・白」という文字を、おそらく偏愛した書き手でもありました。
私はなぜかとは考えません。その表記を楽しむだけです。いまここでやっているように。
私にとって「古井由吉」は言葉であり言葉の身振りです。刺激的な細部に満ちた作品を、ストーリーや人生観や意図や文学観や恋愛観に置き換える気持ちはありません。
明けるのを待つ
古井由吉という書き手が、おそらくあえて書きつづけた「明ける」という文字(言葉というより文字です)の身振りは、その前提に闇・夜・黄泉がある気がします。
「明日」という文字が書かれても、その明日が来ないままでいる場合もよくあります。そんな場合には、「明ける」のを待つ身振りのために書かれた文字列だという感じがします。
『杳子』の冒頭の二行ですが、この「明日」は書かれないままに、小説は進行します。
もちろん、例外もあり、「明日」という文字が書かれ、その「明日」が「翌日」と書かれて、明日が来る場合もあります。
古井の全作品を熟読したわけではありませんが、このように「明日」がじっさいに書かれるのは珍しい気がします。
ここでも、「待っている」「待ち構えていた」という身振りが目につきます。
この小説の視点的人物である「彼」(S)と杳子は、「明日」が「翌日」になったその日に会い、作品は終わります。以下の引用文にある「明日」が書かれないままに『杳子』という小説が終わるのです。
この後に「赤」がつづけて出てきます。
「明日」が、闇・夜・黄泉の世界で、明けるのをひたすら待つという身振りに見えます。
「あける・明ける」の語源の説明には、たとえば「アカ(明・赤)と同源で、明るくなる意)(広辞苑)とありますが、何度もうなずかずにはいられません。
やみ、よる、よみ
闇、夜、黄泉。
やみ、よる、よみ。
「そこ」では個人が多数の他者とつらなる。他者は多者でもある世界だと想像しています。
「そこ」では誰もが列をなしてつらなる。個人を縛る鎖が連鎖をなし、長い長い連なりを形づくっているかのようです。
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連鎖、連座・連坐、蓮座・蓮坐。
連想が連想を呼びます。連想には逸脱が付きものです。たとえば、廉想、呆廉想、惚廉草という具合に。
連想には逸脱が付きものですが、憑くようにして付く場合もあります。
たとえば、連座と連坐と蓮座と蓮坐に、巫(かんなぎ)を見てもいいのではないでしょうか。
「そこ」では許される気がします。「そこ」には、さかい目がないのです。
つながっているようなのです。
よ、よる、夜、ヤ。やみ、闇、アン。闇夜、暗夜。暗、くらむ、暗む。眩む。暗い。昏い。杳い。闇い。冥い。冥界。
というか、私が勝手につなげているだけですけど。
坐、巫
『杳子』の冒頭です。冒頭ですからルビが振られていてもいいわけですが、「坐」にはあえて振らなくても読者は読めるのではないかとも思います。
それはそれとして、この一文に、私は巫女や巫(かんなぎ)を感じてしまいます。とはいえ、読みすすむにつれて、杳子からは巫女や巫といった印象が薄れていきます。
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「かんなぎ・巫」は、辞書に「古くはナムナキ。神なぎの意」(広辞苑)とあるように、和語であり、神道系の言葉のようです。「なぎ」は「なぐ・和ぐ・凪ぐ」とつながる感じもします。
「坐」は、「すわる」という和語に当てた漢字のようです。漢和辞典の解字の欄には、「人+人+土」(漢字源・学研)とわかりやすい説明があります。
古井は「坐る」のように、よくルビを振るのですが、ルビが振られているのを見るたびに、私は「この文字をよく見なさい」と言われているような気がして、じっと見ています。
すると、上で述べた巫のイメージと、人がすわっているさまが浮かびます。私は人の「すわる」姿に、仏画や仏像の座位・坐位を連想する癖があります。巫とは異なり、大陸からつたわった仏を感じるのです。
古井には、「北上の古き仏たち」(『山に行く心』所収・作品社)という仏像を訪ねた紀行文(エッセイ)があります。この文章について、いつか書きたいです。
坐る、腰をおろす、腰をかける
以下は、『杳子』といっしょに収められている『妻隠』(つまごみ)からの引用です。
『妻隠』の冒頭はp.172なのですが、話がそこそこ進んでから、はじめて「坐る」という身振りと「坐」という文字が出てくるのは――見落としがあったらごめんなさい――、意外と言えば意外に思われます。
「尻」くらい、読めますよ、古井先生――。そんな読者の声が聞こえてきそうです。古井先生が、あえてルビを振っているところには何かがある――。そんなふうに私は感じます。におうのです。ぜひ、お読みになってください。
ここでも「坐」にルビが振られていますね。「見て見て」と文字が言っているように私には思えます。
このヒロシという少年に私は強烈な巫女と巫を感じます。男の子なのですが、その描かれ方から巫女の素質が、ぷんぷんにおうのです。
こうした私の読みは詮索とか妄想と取られかねないものですが、古井由吉は私の尊敬する数少ない書き手の一人です。表記やルビさえも、おろそかにせずに目を注いで読みたいとつねに思っています。
巫という私の私的な連想はさておき、「坐る」と「腰をおろす」と「腰をかける」は、古井由吉の文章では書き分けられている気がします。とはいうものの、作品の細部を見るとケースバイケースなのです。
小説は見立て(図式化された先入観)で読むものではないという教訓です。
すわる、巫
すわる、すえる、うえる。
坐る、座る、据わる、据える、植える。
辞書によると、「すえる・据える」は「うえる・植える」と同源らしく、「そこに根を下ろすようにしっかりと定着させる意」(広辞苑)とあります。
和語ではそうしたイメージがあるようです。
私なりのイメージだと、「土に根を張る」感じなのですが、これは坐という漢字で私が勝手にいだいている巫(かんなぎ)の意味とは異なります。「かんなぎ」は「神を凪ぐ」というように巫女の役割なのです。
そう考えると、『杳子』で平たい岩の上でうずくまっている杳子は「すわる」のイメージであり、『妻隠』で荒々しい男どもにむかって、とうとうと言葉を唱えるヒロシは「巫・かんなぎ」のイメージに感じられます。
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個人的な印象である連想を言葉にすると、以上のように話がごちゃごちゃします。ごめんなさい。
図式的にまとめてみます。
坐る:「すわる」という和語。「すえる・据える」と「うえる・植える」から土に根を張るイメージを連想。坐位の仏像も連想。仏教的なイメージ。
坐る:和語の「すわる」に当てられた漢字の「坐」に、「巫」という形の漢字を連想。「巫」という漢字には、「かんなぎ」(神を凪ぐ)という和語が当てられている。「巫女」のイメージを連想。神道的なイメージ。
なお、この図式では仏教的と神道的という言葉をつかってはいますが、神仏習合(神仏混淆)という発想とはほど遠いものです。私の単なる連想であり思いつきでしかありません。
また、古井の宗教観を想像して述べたものでもありませんので、ご承知おき願います。
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またもや、見立てをしてしまいました。言い訳になりますが、見立ては楽しいのです。
話を「闇・夜・黄泉」にもどします。
そこ、ここ
闇、夜、黄泉。
やみ、よる、よみ。
「そこ」では個人と故人のあいだの差はきわめて薄いのではないでしょうか。個人と多者のあいだの隔たりも淡い気がします。
個人の中に多者である他者がの声が層をなしているのです。
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そもそも、「そこ」には、さかい目も、うつり目もないようです。
境目も移り目もないとはいえ、「言語以前」とか、「言葉になる前」などという小賢しげな言葉でまとめたくはありません。あくまでも「そこ」です。
あける、明ける、開ける、空ける、赤、陽、日、白、月。
闇、やみ、夜、よる、黄泉、よみ。
座、坐、巫。
すわる、すえる、うえる。
坐る、座る、据わる、据える、植える。
座る・坐る、腰かける、腰をおろす。
つながっているようです。
「そこ」は「ここ」でもある気がします。そう信じたいです。
「むこう」や「かなた」も「ここ」と通じているにちがいありません。
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明日は祝福すべき、おめでたい日です。私がここで、この文章を書いているのも、あの日に産声をあげた人がいるからです。明日を待ちます。
※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。
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