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こころのうちを話してみませんか。

 こんにちは。チャイルドコーチングアドバイザー&チャイルドカウンセラーの荒木です。

少し、センシティブな内容になります。

私は、小学五年生の時に手首を切ったことがあります。学級裁判という名の下のいじめに遭っていた時期でした。

いろいろ言われて、「やめて!」と叫んで振り上げた手が偶然にも同級生の頬っぺたに当たり、それでそこにいた同級生が担任に、担任が私の両親に電話をして、両親はその同級生の家に謝りに行ったその日の夜に、布団の中にカミソリを持ってきて手首を切りました。親に迷惑をかけた、という思いと、これ以上耐えられないという思いがありました。幸いなことに、カミソリがあまり切れなかったこと、痛さに負けたことで、大事にはなりせんでした。

しかし、あの頃の私は生きたまま死んでいたのではないかと思います。

いじめに遭い、自らの命を絶つという痛ましい話は今でも少なくありません。また、最近はいじめに遭ってなくても命を絶つことを選択する若者もいます。

自殺を肯定するわけではありませんが、経験者として思うことは、もしかしたらそれは否定ではなく、自分自身を守るための一つの手段なのかもと思うことがあります。
これ以上、自分自身の心を傷つけたくないし傷付けられたくない、でも生きているとそれはいつ終わるともなく続いていく。

そんな気持ちになったとき、自分を守るための最後の方法として、命を絶つことになるのではないのか、と思います。とても悲しいことだけど。

だから、絶対ダメとか、誰かが悲しむとか、命を大切にしなきゃ、とか、そんな言葉で説得するのは何か違和感を感じるのです。

誰しも自分を守りたいと思います。
自分で自分を守るということが命を絶つという選択でそれがようやく自己決定できた、になるのかもしれない、と思うのです。最悪の守り方に…。

プライド、自尊心、それらがそちらの方向に傾いてしまった結果なのかもしれません。

 自ら命を絶ってしまったことというのは、いなくなった後も自分を大切にできなかった人として扱われることがあります。

否定しないでほしいんです。彼らは一生懸命、自分1人で自己肯定を必死になってしようとしたのだと思います。

人は孤独感に占拠されると、あらぬ方向に向かってしまうのだと思うのです。

だから、
自分を守る方法を間違う前に、誰かの寄り添いや受容が必要なんです。

自分の気持ちに寄り添い、苦しかったね、辛かったねと共有してくれる人がいてくれることがどれだけの救いになるか。

私は長いこと、自己否定の呪縛に囚われていました。だから、自分の子どもたちも多かれ少なかれ、その呪縛を与えてしまいました。

その呪縛から解き放たれたのは実はつい最近のことなんです。

私の心に寄り添い、私に受容してくれたのは「本」でした。そして身近にいる人でした。

今は、どんな自分も受容できるようになりました。そして今を生きるのが楽しくなりました。やりたいことができる自分になりました。

大きな自己否定を持っていた私が、変わることができたのですから、もっと早く気づくことができたとしたら、きっと楽しく日々を過ごせると思うのです。
そして、どんな自分であっても変わることができるし、それはいつからでも変わることができるんです。

だから、辛いときは近くの誰かに頼ってみてください。苦しいときは誰かに心のうちを話してみてください。

心の闇も劣等感も、今までの自分の過去も自分の一部でありそれが自分自身を作り上げていると思うことができるようになれば全てが愛おしいもので、何一つ欠けても、自分ではなくなるんです。
必ず、それらも自分の人生において使える日がきます。

 どうか、苦しくなったら辛くなったら

いつでも話に来てください。

あなたの存在はこの世に唯一、1人だけ。

誰も変わることができない

  大切な存在だから。

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