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96歳、在宅医療で亡くなった祖父の最期から学んだこと

愛されて育ったかどうか。
そんな言葉を耳にすることがあります。

私は愛されて育った人だと言われることがあります。
そう、間違いなく、そうだと思います。
でももっといえば、それは長らく気がつかなかったことで、きっかけは父の死、そして祖父の死もあらためてそれを感じるきっかけをくれました。

父との最期の約束は「幸せに生きるね」でした。
それ以来「幸せに生きるとは何か」が、仕事でもプライベートでも、私の人生のテーマになりました。

96歳のじいちゃん


2024年5月3日の深夜2時14分に、在宅医療中だった祖父を看取りました。
96歳。膀胱癌でした。
大往生とは言え、生まれた頃から25年間一緒に住み、父亡き後は父のように思っていた人でした。思い出はあげればキリがないので割愛。

じいちゃんの最期から学んだこと

昭和2年、静岡県の生まれ。
ばあちゃんとともに今日まで生きて、結婚生活75年。
奇跡のような、夫婦揃っての90歳超え。
本当にギリギリまで要介護状態にもならず、元気に過ごしていました。


貧しい農家に生まれ、戦時を生き抜き、必死に勉強して建築士となり、たたきあげで上りつめたじいちゃん。

東海道新幹線開通時には、関ヶ原トンネルの設計を担当。
何十年も前の横浜駅の大規模改修工事では、現場の責任者としてプロジェクトを成功に導きました。
ノイローゼになるほど、没頭したそうです。
定年後も、ずっと仕事をしており、その仕事ぶりには定評があり、何度も表彰も受けているようです。

そんな、仕事に誇りを持っているじいちゃんでした。

そして、家庭も大切にする人でした。
40歳からの夫婦揃っての毎朝のウォーキングや庭仕事など、健康や生活も淡々と積み上げていました。積み上げたことは裏切らない。そう感じさせてくれる生き方でした。最期の生命力も、普通じゃなかったです。
4人の孫とも本当によく出かけてくれました。私の勉強も、何度も見てくれました。

じいちゃんが決めていた明確な「人生の終わり」

じいちゃんは、明確に人生の終わりを決めていました。
最期はどんなことがあっても自宅で息を引き取る事。最期は在宅医療で家族と共に看取りました。
そして、ばあちゃんを残していく場合(それさえもずっと心残りにしていたけど)、ありがとうと言って死ぬこと。
最後数週間は、涙を何度も流し、手を握り「ありがとう」と伝えていたようです。

今回のことで希望を持ったこと

身近な家族の死は、辛いものです。それは何歳であろうと。
私の場合、父も、祖父も、息の絶える瞬間を目に焼き付けていました。
父の死に際は、今でも時々思い出します。

だから、家族を看取ることは、私にとって何より大切にしたいことでした。
年明けからもう長くないとわかってから、意識はほぼ、仕事(仕事にまつわることも)と家族のことに全部向けていました。
できる限り家に帰り、最後は実家に住んで、悔いなきようにじいちゃんとの時間を大切にしていました。
喋れなくなり、起き上がれなくなるけれど、そんな最後の生き様を残そうと毎日動画を撮り、記録していました。


そんなじいちゃんの終わりは、悲しみだけでなく希望をもったこともたくさんありました。

家族の絆を感じた


娘たち、孫たち、ひ孫たち、親戚一同が入れ替わり立ち替わり会いに来て、実家のことを色々手伝い、じいちゃんに声をかけ、幸せな最期にしようと全員が心を合わせていました。ここまで家族や親戚の絆をいままでに感じたことはなかったです。
葬儀の時。弟が喪主に代わって挨拶を読みました。いつも無口な弟も、最後は毎日毎日実家に通っていました。彼もまた、一緒に祖父と住んで、愛されたことを知っていること、父の最期を一緒に看取ったので、悔いのないようにしたかったのでしょう。そんな弟が言葉を詰まらせながら挨拶をしていました。彼の涙は、子どもの頃以来、初めて見たかもしれません。

医療従事者、介護職の素晴らしさを目の当たりにした


在宅医療で看取ることは、家族の力だけではできません。
この数ヶ月自宅に何度もきてくれた、医療従事者、介護職のみなさん。
医療福祉業界に携わってるから尚更わかるけど、本当に素晴らしい人達でした。仕事に誇りをもっていたじいちゃんの周りには最期、同じように誇りをもっている人が集まってくれたし、その人たちのこころが伝わってきました。
祖父のあり方や、家族の在り方を見て「こんな風に終わりを迎えられる人は、なかなかいませんよ」と皆さんが口を揃えていってくれました。

最期にもらった言葉


数週間前、喋れるうちにとじいちゃんに遺言をもらいにいきました。言われたのはこの2つ。

「決して傲慢になるな」
「弱い者、苦しい者に手を差し伸べなさい」

貧しい家の生まれだったこと、裕福ではなく行きたい進学先に行けなかったこと。それゆえに組織の中でも悔しい思いをしたこと。そんなじいちゃん。

無駄が嫌いなはずなのに、なぜか街中でポケットティッシュでもチラシでも、毎回受け取るじいちゃんを見て、子どもの頃「なんで?」と聞いたことがあります。

「じいちゃんがこれを受け取ると、この人たちの仕事が一つ終わるんだよ」

ティッシュ配り一つだとしても、相手の仕事を楽にしてあげる。
その言葉はずっと心に残っています。

先日。ある人がメッセージをくれました。
facebookに祖父の死についての投稿を載せ、この遺言を載せたところ、それを見てでした。

「じいちゃんの遺言、ささきさんそのものじゃん!じいちゃんの教え、願い通りの人物ですよ!って代わりにじいちゃんに伝えたい。
最後の言葉だったかもだけど、幼いころからそういう価値観でかわいい孫と接してきて、いまのささきさんが形作られてる面も絶対あるよな、と思いました。
じいちゃんも、そんな孫の姿も、最期の時間を一緒に過ごせたことも嬉しかったんじゃないかなあ」

今年に入ってから受講したスクールでであい、直接喋ったことはほんの数時間程度。そんな人が、そうやって伝えてくれること。
自分の未熟なところがまだまだあると知っています。
それでも、このやさしさを、じいちゃんも知ったら喜ぶだろうと思って、書き記します。

祖父の最期を看取って思うこと

やっぱり人はいつか死ぬし、残せるものは限られていると思いました。
だからこそ、自分自身と、家族と、大切な人と、この社会に対して、どうやって生きてどうやって死にたいか。
私がテーマとして持つなら「誠実であること、正直であること、素直であること」。
そして、私が幸せであることに、自分が責任を持つこと。
色々なことがあるけれど、自分自身の在り方と行動で、やさしい世界を作っていくこと。ともに生きる人を、幸せにすること。

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