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「のど飴はキスの味、じゃない」の謎を解く-カネコアヤノ『さびしくない』について

2024年4月17日にリリースされたカネコアヤノの新曲「さびしくない」を初めて聴いた時の、正確にはその歌詞のうちのワンフレーズを耳にした時に覚えた掴みどころのない違和感と、その正体を探るべく為された検証とその結論について。

カネコアヤノの楽曲の歌詞について、以下で試みられるような理論的な、理屈を積み重ねて結論めいたものに辿り着かんとする行為が果たしてふさわしいのか、という問いは一旦脇に置いておくので、そのようなツッコミは野暮とする。始めよう。

【カネコアヤノ「さびしくない」歌詞】
今夜は特に冷え込むね
空気が喉に張り付いて張り付いて 張り詰めた心
のど飴はキスの味、じゃない
〜中略〜
別に遠くへ行けなくてもいい
最近は
最近は
さびしくない

「のど飴はキスの味、じゃない」
一聴して、あるいは一見して、この文が描写する状況やその背景をすぐさま思い浮かべることが出来る人はどれだけいるだろうか。
そもそも、何の気なしに聞き流していたら、違和感を覚えることすらないかもしれない。しかし、聴けば聴くほど、読めば読むほど、この一文の得体の知れない、ある種のぎごちなさのようなものが際立っては来ないだろうか。

まず、「のど飴がキスの味」である訳がないのだ。当たり前のことである。
日本は足の小指、じゃない。人間は片栗粉、じゃない。などど歌っているのと変わらないではないか。
しかし、この歌詞が上述の例と異なるのは、「そんなのは当たり前だろう」と一蹴してしまうには、その不等式の成立に確固たる自信を持てない点にある。つまり、「のど飴はキスの味、じゃない」と思わず言ってしまわなければいけない状況に我々も陥る、もしくは今までに陥ったことのある可能性を、心のどこかで排除できないのだ。それが違和感の源泉のような気がするが、まだその姿は朧げにしか見えていない。

この一文を読み解くために、この文を構成する要素をそのままに、状況を簡単に想像することが出来そうな文に変形させ、もとの歌詞の仕組みを段階的に紐解いていく、という方法を取ってみた。

①「キスはのど飴の味、である」
「キス」と「のど飴」を入れ替え、さらに否定の「じゃない」を排除してみた。この文なら状況の想像はそう難しくないだろう。

・キスの相手がのど飴を舐めていた(もしくは今も舐めている)ことにより、キスしたことでその味が自分にも伝わってきた

宇多田ヒカルの代表曲の一つ『First Love』の有名な歌い出し「最後のキスはタバコのflavorがした」を思い起こすことは容易に出来る。キスと匂いや味を結びつけるのはもはや常套句と言ってもいいほどの表現だ。
では、①の文章にもとの歌詞にあった否定の「じゃない」を復活させてみたらどうなるだろうか。

②「キスはのど飴の味、じゃない」
①から段階を踏んでいることもあり、この文から状況を想像することも難しくはなさそうだ。しかし、今回は異なる2つの状況が考えられるだろう。

A:日常的にキスをする相手が普段舐めているのど飴の味が、今回のキスではしない。つまり、何らかの理由によってその相手がいつもののど飴を舐めていない。
B:日常的にキスをする相手とは別の人物とキスをしていることにより、普段のキスならするはずののど飴の味がしない。

①と比べて、一文から想像できる状況の範囲が拡がったように思える。もしかしたら、上述した以外にも考えられる状況はあるかもしれない。
では次は、①の文の「キス」と「のど飴」を本来の順序に戻した文を見てみよう。

③「のど飴はキスの味、である」
もとの歌詞との相違点は否定文でない、という一点のみである。
①ではキスをした時にのど飴の味がする、という状況を想定したが、それを前提にすることで、この反転も不可解なものではなくなるだろう。

・日常的にキスをする相手がいる。その相手とのキスは基本的に「のど飴の味」がするので、もはや同じのど飴を舐めるだけで、その相手とのキスが思い起こされるまでになった。

②と同様、文の解釈には前提となる背景の存在が必要な文だ。つまり、これでもじゅうぶん「詩的」な歌詞といえるのではないか。
しかし、冒頭から述べているように、カネコアヤノが選択したのは、上記3つのどれでもない。そう、「のど飴はキスの味、じゃない」のだ。

④「のど飴はキスの味、じゃない」
ここまで丁寧に段階を踏んだことによって、当初はその不可解さに怪訝な顔をするしかなかった我々の視界も、ずいぶん晴れてきたのではないだろうか。
③の状況を否定すればいいのだ。そして、同じく「じゃない」を用いた②と同様に、ここでも考えうる状況は複数挙げることが出来そうだ。

A:日常的にキスをする相手がいた。その相手とのキスは基本的に「のど飴の味」がしたため、もはや同じのど飴を舐めるだけで、その相手とのキスが思い起こされるまでになっていたが、もはやその記憶が想起することはない。
こののど飴を舐めても、もうキスの味はしないのだ。

B:日常的にキスをする相手がいた。その相手とのキスは基本的に「のど飴の味」がしたため、もはや同じのど飴を舐めるだけで、その相手とのキスが思い起こされるまでになっていたが、何らかの理由で、それとは異なる味ののど飴を舐めている。
これはあの「キス味」がするのど飴ではないのだ。

どうだろうか。これを「詩的」と呼ぶことに抵抗のあるものはそう多くないだろう。我々が些細な違和感を覚えた一文の背後には、こんな物語の存在が示唆されていたのかもしれない。

しかし、重要なことにまだ触れていない。
この「のど飴はキスの味、じゃない」が単なる一文の詩ではなく、「さびしくない」という曲の歌詞の一部分であることを思い出さなければいけない。
この文を④のいずれかで解釈したという前提に立ち、そこから「さびしくない」に結びつけると、
A:こののど飴を舐めても、もうキスの味はしないのだ。
→(だから?)さびしくない (しかし?)さびしくない
B:これはあの「キス味」がするのど飴ではないのだ。
→(しかし?)さびしくない (だから?)さびしくない

考えうる接続詞として(だから)(しかし)を当てはめてみたが、いずれにせよ「さびしくない」というタイトルの曲であるからには「さびしくない」のだ。
本当に「さびしくない」と思っているかどうかはさておき、「さびしくない」と言っているのだ。
これで一件落着、「のど飴はキスの味、じゃない」→「さびしくない」の華麗なバトンパスが繋がったかのように思える。いや、果たしてそうだろうか。

②の「キスはのど飴の味、じゃない」をもう一度見てみる。

A:日常的にキスをする相手が普段舐めているのど飴の味が、今回のキスではしない。つまり、何らかの理由によってその相手がいつもののど飴を舐めていない。
→さびしくない
B:日常的にキスをする相手とは別の人物とキスをしていることにより、普段のキスならするはずののど飴の味がしない。
→さびしくない

いずれの文も目指すべき到達点が「さびしくない」であるとしたら、この②もじゅうぶんその役割を果たしているように思える。では、②ではなく④でなければいけない理由はどこにあるのか。
それぞれの解釈から想像できる状況を、具体的な絵で思い浮かべてみて欲しい。

②ではキスをしている人物が、④ではのど飴を舐めている人物が思い浮かぶはずだ。「さびしくない」と言っている(言い張っている?もしくは思っている?)人物が曲の冒頭で、誰かとキスをしているのか、それとも一人でのど飴を舐めているのか。カネコアヤノが選択したのは後者だ。


「のど飴はキスの味、じゃない」という一文と、そこから想起される状況の飛距離は決して短いものではなかった。それと比肩するように、一文から想起された状況と、この曲の主題「さびしくない」の間に横たわる飛距離も、相当なものではないだろうか。この飛距離こそが、この曲に限らず、特にアルバム「タオルケットは穏やかな」以降に顕著なカネコアヤノの歌詞における「強度」とでも言いたくなるような確かな詩情と、絶妙に聴き手を振り向かせる「違和感」をもたらしているのではないだろうか。

曲の終盤、まるで、その飛距離を帳消しにせんとばかりに「別に遠くへ行けなくてもいい」と歌われる。そして、連呼される「さびしくない」。
本当に「さびしくない」のだろうか。本当に「別に遠くへ行けなくてもいい」のだろうか。果たして「さびしくない」と思ってるいる人がわざわざ「さびしくない」ことを声高に叫ぶだろうか。ここにも、言葉や表情という我々の目に映る表層と、誰にも突き止めることの出来ない「本心」という深奥との、計り知れない飛距離が存在しているのかもしれない。


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