「翔べ! 鉄平」  21

 1943年、昭和18年末には、連合軍はソロモン、マーシャルなどの諸島に上陸しマリアナ諸島に迫ろうとしていた。
 大型爆撃機B-29の完成したアメリカ軍にとって、マリアナ諸島を落とせば日本の本土に直接攻撃が出来るようになる。制空権を失っていた日本は民間人にも被害が及ぶことを恐れ、大本営は絶対防衛圏を定め多くの兵力をサイパン守備に向けて出発させたのである。

 サイパン島の浜辺から海と空を眺めているだけなら、美しい楽園と思える。しかし鉄平たちが到着する頃には連合軍の爆撃が日増しに増えてきていた。
 空を見上げるとき、それは敵の攻撃機を探すときであった。

 島を吹く風は飛行機の翼に切り引き裂かれ、波の音は機銃の音にかき消される。

 アメリカ軍の上陸を阻むため、日本軍の陣地は水際に集中し、塹壕を掘り、狭い溝や穴を掘り、その上を椰子の葉で覆い、その下に身を隠す。

 太陽の下に出れば、海風が肌を塩で辛くし、太陽がそれを塩焼きにする。時々塩辛い肌を舐めては少なくなった乾板を齧り、水を飲む。塩辛い自分の肌を食べたくなるほど、物資食料が不足し始めていた。

「すまんな」

 サイパンに来て以来、龍宮が時々口にする言葉だった。

 実直すぎる龍宮は、他の将校たちとの間に軋轢を生んでしまい、いつも割りに合わない仕事を請け負わされていた。配給さえ差をつけられていた。守備に配置された場所も、逃場のない断崖の上だったのだ。

「大丈夫ですよ」

 と誰かがつぶやく。

 根拠のない言葉だったが、部隊のみんなが安心できる言葉だった。他の日本軍部隊とは違う、そんなエリート意識のような誇りだったのかもしれない。

 補給が続けられていた頃は、手榴弾などを海に投げ込んで爆発させれば面白いように魚が取れた。しかし補給が滞るとそうした弾薬の一つさえ惜しまなければならなくなった。

 空襲で作業が滞った畑から残った芋を掘り、サトウキビを切り出してきてはそれを齧る。

 鉄平はポケットに入れていたサトウキビの欠片を取り出して一口かじり取ると、隣に座っている犬飼に渡した。
 犬飼もそれを一齧りして熊沢に渡す。鶴田もサトウキビを取り出した。そして同じように龍宮、鵜飼と渡る。
 防空壕の中は缶詰の油や現地住民に教えてもらって作ったココナッツオイルの行灯でゆらゆらと薄暗く照らされていた。小皿に油を注ぎ、綿糸を浸してその先を皿の縁から数ミリ垂らす。そこに火を着けるのである。缶詰の油とココナッツの臭いが空腹をさらに辛くする。

 警備を終えて穴に入り込むと、暗く静かで、何かしていないと不安に襲われ、間が持たない。各部隊内では兵たちの苛々が募り、時折諍いが起こっていた。そうした諍いが度重なると部隊内の調和が乱れてくる。しかし1001は、それを何所吹く風と塹壕のなかで声を押し殺して笑っている。

 ある日犬飼が提案した。

「なぁ、あのリーフまで行けば、サザエが転がっている。岩の間には大きなシャコ貝もある。それをココナッツオイルで炒めて……」

 隊員はそれぞれの目を見回した。

「そうだ、大きなナマコもいる」

「ナマコ?」

「ああ。ナマコを水から引き揚げると、ナマコの口と肛門から水が出てくる。それは生水なンだ」

 オオ!

 隊員たちは夜になると地面を這って海岸まで行き、遠浅の海を這い泳いでリーフまで行きサザエを拾った。
 リーフの中は波が静かで、そんな静かな海で育ったサザエには角がない。水の中で黄色や緑、赤の襞を出しゆらゆらと揺らすシャコ貝の口に銃剣を刺して揺らすと人の頭ほどの大きさの貝が出てくる。砂底には丸くなった猫のような黄土色のナマコがいる。それを抱き上げてバケツに生水を汲み、また海に戻す。すると明日にはまた生水を提供してくれるのである。

 そうした採集で全ての兵隊たちの空腹を満たすことは出来なかった。

 また敵の空襲にさえも慣れていく。攻撃機の機銃の炸裂する音にスリルを感じ、逃げおおせると生きているのが不思議で無性に笑いたくなるのである。笑いたいから、わざわざ敵機の襲来を待って奇声を上げて外に飛び出す者もいる。助かった時、無性に可笑しくなるのだ。


 社会から孤立した人は、全てを自分の中だけで理解し解決しようとする。内向きで、自らの内面ばかりを肯定し続け、そして時には常人が理解できないような答えを出し、ますます孤立し社会が理解できなくなる。

 そうした人たちが集まると、孤立した小さな社会を作り出し、もっと大きな社会から孤立する。孤立した狂気の国の国民一人一人が孤立した狂気の社会を作り出していく。その中では互いを狂気で励まし、狂気で正当化し、大きな社会に対して牙を剥く。

 バカは健常社会の普通のバカだろうが、孤立した狂気の社会は、皆同じ狂人になることを強いる。

 すでに彼らは骸骨のように痩せこけていた。

 パラを、翼をもがれ飛べなくなった彼らは地面に這いつくばり、空を見上げて呻く。

 真夜中、監視当番を残して寝静まった頃、静かな風の音の中でう

とうとしていると、防空壕の入り口を覆うトタン板の上に、

 ガシャン!

と大きな音を響いた。

 高い木の上から爆弾のように落ちる椰子の実の音は、心を粉々に砕いてしまう。

 防空壕の中のどこからだろうか、ヤモリがケタケタと笑う。

                  つづく

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