「翔べ! 鉄平」  4

 一九四〇年、昭和十五年十一月、海軍大臣及川古志郎の指令に基づき、『第一〇〇一実験』が開始されることになった。

 その前任の海軍大臣吉田善吾は日独伊三国同盟の締結に反対の立場を貫き米内内閣内で対立を強めていたのだが、昭和十四年、第二次近衛内閣において賛成派が力をつけてくると、吉田は病気を理由に辞任。その後を受ける形で及川が海軍大臣に就任したのである。
 及川は就任するとすぐに海軍側として三国同盟の締結に同意し、九月には同盟が締結され、そうして日本は戦争へと突き進むことになって行ったのだった。

 その前年の一九三九年九月、すでにドイツ軍はポーランド侵攻を開始し、ヨーロッパでは戦争が始まっていた。翌年四月にはデンマークへ侵攻を開始、その際空から兵隊を降下させる、所謂空挺作戦を展開し効果を挙げていた。

 その報道を新聞で読んだ及川は新聞社に更なる情報を集めさせた。するとドイツ軍だけでなくアメリカ軍の訓練風景の写真やフィルムも集まる。それを見ていると日中戦争で陸上兵力の補強に力を注いできた日本の陸軍の技術力の遅れが見えてくる。

ーー飛行機から飛び降りる?

 及川は飛行機には何度も乗ったことはあったが、飛び降りるとなると想像がつかない。屋根や木の上から飛び降りる程度ではすまないほど高い高度になる。高い崖の上から飛び降りる事を想像してもみる。飛行機が離着陸する時、体が上がり下がりする重力のことも想像してみる。それにもまして空を飛んでいる時の飛行機は速い速度で動いているのだ。すると睾丸が浮き上がる寒気を感じ、それはそのまま背筋を通り抜け、身震になって肩先で飛び散った。

ーー鵯越を敢行した義経や弁慶も、同じ身震いをしたにちがいない。

 空挺作戦は、今まで陸を這い蹲り、海を泳ぐ生身の兵隊たちが、空を飛ぶようにして、敵の背後に回り、空からの搦め手になれるのである。

『一〇〇一』はその内容を秘匿するためのコード番号であった。
 そしてその指令が出されると、横須賀海軍航空隊を司令部として航空技術廠などから研究者が集められ、研究委員会が発足した。そして実験要員として海軍から一個小隊が集められることになったのだった。

 ある日、龍宮彦治(ひこじ)少尉は連隊長に呼ばれ、とりあえず無鉄砲な兵員を一個小隊分集めろと命令を受けた。

「無鉄砲なやつ?」
「そうだ。鵯越をやった義経のような無鉄砲なやつ。そして七段飛びができそうな身軽なやつ。天狗のように空を飛べる、いや飛べそうなやつ」
「は!」

 龍宮は敬礼と共に答えたが、その先の詮索はしない。まだ生やして間もない髭が鼻の穴と唇をくすぐる。連隊長は数枚の写真を見せて龍宮に言った。

「これを、我が日本海軍も研究をすることになった」
「は?」

 龍宮が覗き込んだその写真は空を飛ぶ飛行機の尻から下方の宙に点々と染みのように黒点がついている光景と、ハッチの開かれた飛行機から地上の景色を撮った写真であった。
「落下傘だ」
「は」
 龍宮は写真に見入ってしまった。

 当時の日本では、落下傘は飛行機からの脱出用に使われる程度で、戦術として大量の兵隊を同時に降下させることはなかった。

「ただし、これは内密にするように。及川海軍大臣直々の命による第一〇〇一実験だ。極秘だ」

 聞きたくなくても「極秘」と打ち明けられてしまった以上、その話に従わなければならない。龍宮の髭が少し震えた。

 しかし無鉄砲なやつと言っても志願兵を集めた軍隊には沢山いる。その中からさらに無鉄砲なやつと言えば、究極は「馬鹿」かも知れない。そう思案しながら兵舎内を廻って見た。眉毛を引きつらせ腕を組み、髭を触覚のようにピンと伸ばして歩いていると、兵卒たちは敬礼をするがその足はつま先立ちになるほど緊張してしまっていた。

 そうして龍宮少尉が海兵団の兵卒が集まる食堂の近くを通りかかると、中で何か揉め事が起こったようであった。龍宮は食堂の入り口でその光景を覗き眺めた。八人掛けの長テーブルで隣り合った兵隊が立ち上がって胸倉をつかみ合う。するとその周りの数人も立ち上がった。そしてもみ合いが始まる。小波のように並んでいた長テーブルが沸き立ち揺れる。給仕係は目を丸くしてそれを見守り、週番が駆けつけてくる頃には食堂は混乱の渦でいっぱいになり、週番も喧嘩に巻き込まれてしまった。

 ところがその混乱の中で、平気な顔をして渦を除けながら、立って飯を食っている者がいた。掴み合った二人がその男に倒れ掛かると、その男はヒラリと椅子の上に飛び上がって除け、そのまま平然と飯を食い続ける。転がって揉み合う数人がその椅子にぶつかると、またヒラリと飛び上がりテーブルの上に移る。テーブルの上を数回飛ぶと、床に舞い降り、横倒しになりそうなテーブルからまだ手付かずのおかずをサッと零れ落ちる前に横取りし、混乱を交わしながら平然と食べ続けるのである。
 龍宮は加勢に駆けつけた週番を背後から捕まえた。

「おい! あいつを捕まえろ!」

 週番は喧嘩に関係ないと思われる男を捕まえろといわれあっけに取られたが、喧嘩を避けながらすばしっこく動く男を追いかけ、そしてすぐにその男を取り押さえた。
「犬飼二等兵! おとなしくしろ!」
「おい! 俺はおとなしくしているだろ! 何で俺が? 関係ねぇだろ!」

 犬飼信六(いぬかいしんろく)。二十一歳。千葉県出身。大正八年生まれ。

 その後龍宮が海兵団を後にしようと基地入り口である正門を通りかかると、詰め所の裏にある営倉から悲鳴が聞こえて来た。
「わぁ! おい! 止めろ!」

 ウォォォ!

 そっと覗き見ると悲鳴を上げているのは営倉を管理する二人の兵隊であった。その当番兵が竹刀を槍のように構えて何かに向かって叫んでいる。

 ウォォォ!

 と営倉の奥から雄叫びが聞こえてくる。二人の兵隊はその声を張り上げる男の前で怯んでいるのであった。龍宮は近寄ってみた。
「何の騒ぎだ」
 二人は龍宮を振り返ると、一人が説明をする。もう一人はすぐに竹刀を構えなおす。
「少尉殿! 実は、営倉内の掃除をやらせていたところ、あの熊沢一等兵が……」

 ウォォォ!

 説明が終わらないうちにまた雄叫びがあがる。龍宮はその声が聞こえてくる営倉内に入ってみた。両脇に牢屋が並ぶ通路の真ん中で、体格のいい男が長いデッキブラシを両手に持ち、それを取り囲む数人を相手ににらみ合っているのである。営倉に入れられている他の者たちも壁にへばりつくようにして怯えている
「おい! 静まらんか!」
 龍宮はその大男に睨みを利かせて怒鳴った。龍宮の後ろから週番兵が声を掛けた。
「おい、熊沢、止めないと、重営倉行きになるぞ!」
 龍宮はその週番兵を振り向いて聞いてみた。
「やつは何をやったンだ?」
「は、実は、先日の演習で、筒を担いでいたのですが、分隊のなかの一人が崖から落ちまして」
「うん」

 雄叫びは続いている。

「それを助けようと、筒を担いだまま崖を飛び降りたンです」
「ほほう、勇ましいではないか」
「ただ、その際筒の照準器を使い物にならないほど損傷させてしまい……」
「ほほう」
「軍法会議待ちなのです」
「ほほう、崖をね。高さは?」
「は、はぁ、聞くところによりますと、五十から七十メートルはあったと」
「照準器はだめになったが、体は頑丈なンだな」

 ウォォォ!
「なんで、仲間を助けたこの俺が! 軍法会議だ!」

 ウォォォ!

 龍宮が大男に近寄ると、デッキブラシがその頬の寸前で止まった。熊沢は龍宮を睨みつけた。龍宮は冷静な面持ちで話しかけた。
「おい、今すぐここを出ろ。団長には私から説明しておく」

 熊沢の怒りの表情が、急に戸惑いの表情に変わり、デッキブラシを降ろした。「しょ、少尉殿……」
 太く冷静な声に変わった。
「君のような兵隊が必要なンだ」
 熊沢桂一(くまざわけいいち)。二十二歳。栃木県出身。大正七年生まれ。

                    続く


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