外見は内面の1番外側?

おはよう
おつかれさま
おかえりなさい
おやすみ

「お」からはじまる挨拶の数々
それらが、わたしの中でなによりも特別な「あの会話」です。

一人暮らしも10年を越えると、なかなか自宅でこれらの言葉を発することは少ない。
職場で当たり障りない挨拶として発しても、そこに心はあったかしら?

あと半年で30を迎えようとしていたあの頃のわたしも、そんな毎日でした。


春の足音が聞こえ始め、20代ものこり数ヶ月と迫る頃。
元恋人と別れ1年以上が経ち、学生時代とは違う土地での生活で友人も少ない身、どうにか出会いがほしいと呼ばれればいろいろなところに顔を出していました。
そのほとんどは異業種ばかりが集まる大勢の飲み会で、ときには条件だけ打ち込んでいれば勝手にセッティングして会わせてくれる、有料のマッチングアプリなんかも使ってみたけれど、結婚願望はなく即恋人になりましょう!という気はまるでありませんでした。

ただ、多くの女性が未だにそうであるように、30という数字に焦りを感じていたんだと思います。

大勢の中では意気投合したような気がして、連絡先を交換し、少々メッセージでのやりとりをし、いざ2人でお食事をしました……となっても、その後はフェードアウトというのが続くもどかしさ……。

恋人どころか友人もできない、そんな徒然なか日々が積み重なった頃、わたしは1つのSNSと出会ったのです。

個人がラジオのようなものを配信して、その配信を聴きに来た見知らぬ人たちとチャットで交流する、というものでした。
今では割とよく聞く生配信系アプリですが、当時はもの珍しく、こじんまりとした交流がぽつぽつと開かれているSNSに心惹かれ、迷わず参加!

最初は気に入った配信者さんの元でリスナー同士挨拶を交わし、会話を重ねて仲良くなると、不思議なものでわたしも配信したくなってくるんです。

そこからはもう毎日が楽しい。

帰宅して、配信を始めれば、来てくれた人達とおつかれさま・おかえりなさいと言い合い

たまに早く起きれた日には朝から配信し、おはようということもあり

辛いことがあった日には愚痴を言い、ときには真剣に語り合い、他愛ない話をしながら一緒にごはんを食べ、おやすみと言い合って眠りにつく

そんな日々の中で、ついにわたしは30歳になりました。

1週間かけて、日本各地に散らばる友人に会いに行く計画を立てたわたしは、飛行機と新幹線を駆使し旅行を楽しみました。

長い移動のお供は配信に来てくれる人達。

これはもう友人だったと思います。

顔も本名も知らないけれど、お互いの体調を心配したり、親身に話を聞いたり、誕生日を祝って嬉しいことを共有するその関係は、れっきとした友人だったのです。


そんな風に親しくなると、会いたくなるのが自然な流れでしょう?

出会ってから半年ほど、夏の終わりの野外ビールイベントを言い訳に、お酒好きな数人が集まりました。
初対面なのに、かしこまった挨拶もそこそこに「乾杯!」と始まり、場所も転々としつつしこたま飲み明かしました。

アプリ内では声を出せるのはひとり。
他はみんな文字での交流だから、毎日のように話していても、全員が顔を合わせて口々に話すのは新鮮そのもの。
でも性格を含め人となりはもうよく知っているなんて、こんなに楽しいことはありませんでした。


そんな楽しい仲間と語らいながらも、わたしはリアルでの出会いも諦めていたわけではありません。
しかし、彼らにデート服なんかの相談をしながら、大勢の中で「はじめまして」を繰り返し、仲良くなるために話をしては、経歴や第一印象と内面が違うことにがっかりされているんだろうと、この頃にはもう気づいていました。

30歳と公言した途端、あからさまにドン引きされることも経験しました。
初対面の同世代の男性に「姐さん」と呼ばれる気持ち悪さは、思い出しただけでも奥歯からギュッと苦いものが滲みます。

そんな中、どんな話も全部知っている仲間のひとりと、2人で飲みに行ったり日帰りで遠出したりする機会が続きました。
超連絡不精だと言っていたのに、毎日おつかれさまとおやすみを言い合うように……ふむ。

まぁ……細かいことは長くなりますから、さておいて、みんなで集まった日から3ヶ月ほどのち、彼女にしてくださいと言うことにわたしは成功したわけです。

こうして2年ぶりにできた恋人は、わたしのダメなところおかしなところブサイクなところ、短所を全て知った上で出会い、それらを面白がってくれる最愛の人になったのです。



人は内面か外見か、どちらを重視すべきなのか、それは永遠に議論される二択ですが、これまでわたしは外見は内面の1番外側で、磨けるものを磨かないのは怠慢だと思っていました。

しかし、30歳という節目に向かっていくにつれ、着飾った外見と過去の経歴で作られた「わたし」に、現在の『わたし』が傷つけられることに疲れ果てていたのです。

そんなとき、「お」から始まる挨拶の数々を心を込めて伝え合う友人たちに出会い、その出会いの中から最愛の人と手をとりあえた。

内面を先行して『わたし』を愛してもらえると、わたし自身が完璧ではない外見すらも愛せるようになってきました。

あらあら、こんなに幸福なことがあっていいのかしら、なんて小首を傾げてみたりして。

今日も一日、おつかれさまでした。

おやすみなさい。