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永すぎた春

彼は、もはや恋人と言う存在を超えていた。

何も言わずに気持ちが伝わって、別に何か特別なことをしなくても、一緒にいれば安らげた。これが、結婚というものなのかな、と真由は思っていた。だから、あえてその一歩を踏み出すことに、必要性も感じなかったのだ。ずっと。

奏多と一緒に暮らしだして、もう5年経っていた。

付き合いはじめてすぐに、奏多のアパートの更新時期が来たので、「お金がもったいない」という理由から、2人で住めるマンションを探した。

以来ずっと、とくに波風も経たずに2人で暮らしてこれたのは、2人が奇跡の相性だったからだと、真由は思う。

「いつかは結婚する」という確信はあった。

だが、逆に、いつかはするものなのだから、すぐにしなくてもいい、というものぐさな心も働いた。5年も一緒に暮していれば、恋人としての恋情よりも、家族としての馴れ合いの感情のほうが勝ってしまう。

結婚には、そのための強いモチベーションが必要だ、と思う。

要するに、「この人を占有したい! 契約で縛りたい!」という強い欲望に突き動かされないといけない、ということだ。

ずっと一緒に暮らしていると、そういう熱い気持ちは、どこかへ行ってしまう。ただただ心地よいぬるま湯のような毎日と、何かを動かすのが面倒だと言う怠惰。

それが結婚までの道を目隠ししてしまう。

「でも、いつかは、するものだから」

真由はいつもそこで思考停止して、考えるのを後回しにしていた。そして、それは奏多も同じだったと思う。

*****

そんなある日のこと、真由は、1人の男に出会った。

通っている英会話教室の忘年会で、たまたま隣に座っていたのがその男、米澤だった。真由よりも10歳も年上で、落ち着いた雰囲気の外資勤めの男で「いつかは海外に移住するのが夢だ」と語った。

真由は、新しく誰かと出会うと、必ず奏多と比べる癖がある。

米澤は、奏多よりも背が高く、がっしりしていて、奏多よりも大人だった。そして、少しシャイで、だいぶ知的だった。

奏多は、時々子供のように思えることがある。変なことで意固地になって、ふくれてしまうと、会話もしなくなる。機嫌が直るまでは、真由はなにかと気を回さなければならない。
米澤は、きっとそんな子供っぽいことはしないだろうと思えた。

仕事でよくヨーロッパに出張すると言う彼は、洗練された身のこなしで、2軒目のバーでも、真由を完璧にエスコートしてくれた。

真由は、久しぶりの男性との親密な会話に、忘れていたときめきを思い出していた。
ウィスキーのグラスをつかむ、長い細い指が、節張っていてとてもきれいだ……、とぼんやり思う。

外へ出た瞬間、車道側から歩道側へと誘導するために、軽く腰に手を回された。

その時、胸が早鐘のように高鳴った。そのまま抱きしめられたら、間違いなく目を閉じて受け入れてしまっただろう。

真由は、勝手に盛り上がる妄想を必死に押さえつけながら、笑顔をつくって、米澤に言った。

「私は、少し歩いて帰るので、もうここで」
「1人で大丈夫? だいぶ飲んでたけど」

少し心配そうに米澤が覗き込む。頭1つぶんも、背が高い。真由は頬を押さえて、退いた。

「うん、大丈夫」
「ご家族と一緒に住んでるの?」
「え……、あ、ううん。1人」

咄嗟に嘘が口をついて出た。

「そうか、ホントに気を付けて。今度、一緒にオクトーバーフェスト行く約束忘れないでくださいね」

やわらかく言って米澤は笑った。そうだ。次に会う約束もしたんだった……。

真由が、奏多以外の男性をデートに誘うのは初めてだ。うしろめたさはまったく感じなかった。ただ、ときめきだけが、胸にあふれていて、痛いくらいだった。

「それじゃ、また」

ふわふわした足取りで、真由は、奏多と暮らす家に帰ったのだった。


それから、奏多には内緒で、何度か米澤と会った。飲みに行くだけではなく、美術館の企画展や、米澤の仕事関連のイベントなど、2人で出かけるのにちょうどいい口実をつくって米澤は誘ってくれた。

そして、会うたびに、どんどん惹かれていく自分がいた。

米澤は紳士で、無理やり何か関係を迫るようなことは一切なかったが、さすが40過ぎの経験豊富な男性らしく、ぐっと押すべきところはわきまえていた。

一度、帰り際に、駅へと急ぐために、手を取られた。そのまま手を握っていたら、駅に着いた途端、ぐっと手を引かれ、腕の中に納まってしまった。思わず、息をのんで米澤を見つめると、「あ……」と思った瞬間、唇に軽いキスが落ちてきた。

驚きのあまりフリーズしていたら、やさしく肩を押されて、乗り口のほうへ促された。「じゃあ、またね」米澤はやさしく落ち着いた口調で言って手を振った。

真由は、顔がカッカと火照るのを感じた。

初めてキスをしたその日は、舞い上がってしまって、家に帰ってから心ここにあらずだった。すでに家にいてゲームをしていた奏多が、こっちも見ずに、「おかえり―」と言うのに、返事も上の空だった。

奏多のことは今でも、変わらずに好きだ。でも、その「好き」は、恋と言うより、長年一緒にいるが故の、家族の情、友情のようなものに変質してしまっているように思う。

何より、奏多にこの恋の話をしたい、という無謀な欲望が胸に起こるのを、押さえるのに苦労した。

今まで、うれしいことも悲しいことも、一番に共有してきた奏多だ。「今一番うれしいことを真っ先に伝えたい!」と思うのは、至極自然なことのように、恋する真由には思えた。

「奏多、私の新しい恋は素敵なの! あなたもよろこんでくれるよね!」

ウッカリすると、そう言い出してしまいそうで、真由はわざと不機嫌な顔をつくって、奏多に背を向けなければならないくらいだった。

奏多がそういうところは鈍感なのが救いだった。

どうしよう……いや、別に、ただキスされただけ。いや、された、というか、自分がそうしてほしいという顔をしていたのか。海外生活の経験もある米澤にとっては、キスくらい挨拶程度のことなのか。あまり深く考えない方がいいのだろうか。

真由は、その日は、ぐるぐると米澤のことばかり考えて眠りについた。

米澤との仲は、それからとくに進展するわけでもなかった。だが、真由の中では、米澤の存在が大きく膨らみすぎて、徐々に、奏多と暮らしていることを米澤に隠していることに、とてつもない後ろめたさを覚えるようになっていた。

「女は結局、好きな男にだけ操立てしたいのだ」と真由はしみじみと思った。

本当だったら、後ろめたさは、奏多に感じるべきなのに。米澤に対して、嘘をついていることがこんなに心苦しいなんて。

早く、自由になって、潔白な状態でこの恋を進めなくては!

真由は毎日家に帰るたびに、そう思った。奏多に触れられるのも徐々に避けるようになっていたから、奏多も何か気づいているかもしれなかった。でも、真由にとっては、そんなことを気遣う余裕さえなかったのだ。心の中は別の男のことでいっぱいだったから。
2人をつなぐものは何もなくなった
ある朝、真由は、ついに奏多に切り出した。

「同居を、解消しない?」

さすがに、好きな人ができたから別れたい、とまでは言えなかった。

「5年もズルズルしてきたけど、そろそろお互いの生活をもっと大事にしたほうがいいと思う。親も、心配するし・・・・・・」

奏多は、相変わらずテレビのほうを向いていて、何も言わなかった。

「あと2か月で、更新時期だし、私は別のマンション探すから」

一方的に物言わぬ背中に言葉をかけた。奏多は何も反応せずに、ただ、小さくうなずいたようだった。

泣いてる・・・・・・? まさか。

真由は、その丸まった背中を見て、さすがに胸がチクッと傷んだ。でも、ここで心が揺れたらいけない。とにかく自分は身ぎれいにならないと!
奏多の声を聞かないまま、真由はその日は家を出て、友人の家に泊まった。

引っ越しをしてからあとは、あっけなかった。

真由が出て行ったあと、奏多もマンションを更新せずに、どこかへ引っ越し、2人をつなぐものは何もなくなった。

何かを察していたのだろう、奏多から連絡が来ることは二度となかったし、真由も、何を言われるか怖いような気持ちがあったので、あえて連絡をしないままでいた。奏多がその部屋を引き払ったことは、ずいぶん後になってから知ったのだ。

もうそのころには、奏多の携帯電話も不通になっていて、SNSのアカウントもかき消すようになくなり、連絡する手段は何もなくなっていた。

米澤とは、たった半年だけ付き合って、すぐに別れた。なんてことはない、米澤は、もともと半年後にアムステルダムの会社に転職する予定だったのだ。真由と出会ったころから決まっていたことだったらしい。ほんの短い間だけ、夢のような時間をくれたあと、米澤は、2人の間には何もなかったかのように、サラッと去って行った。

「向こうに着いたら連絡する」と言っていたのは、口先だけの約束で、実際は、どれだけ待っても、彼からの連絡など来ることはなかった。

半年間というのは、恋が盛り上がって、最高潮を過ぎたあたりだ。この先もずっと一緒にいたいかどうか、急に現実がちらついてくる。

おそらくは、米澤も、真由も、お互いが、お互いの人生に必要な人間ではない、と気づいていたのだと思う。

一時だけの恋。ただ、お互いに、他人の顔でやさしくできる、ただ短い間の。



米澤と別れて、真由は、ちょくちょく奏多のことを思いだすようになった。

2人で暮らしたマンションを訪れ、そこがすでに別の人間の住まいになっていることも、このころに知った。奏多へとつながるすべての糸が、とっくに切れていた。自分が気づかぬうちに。
真由は愕然とした。

つい、半年前までは、家族のように思っていた人間が。一生傍にいると信じて疑うこともなかった、友人よりも、下手すると親よりも、ずっと親しい関係の人間が、まさか煙のように掻き消えてしまうなんて。もう二度と会えないなんて。

この先、彼が結婚しようが、子どもが生まれようが、病死しようが事故死しようが、真由は知るよしもないのだ。

真由は、それに気づいた日、奏多と別れて初めて、泣いた。大声を上げて、泣いた。

自分が失ったものが、いかに大きなものだったのか、その日初めて、真由は知ったのだった。

もう一生、会うことはない、たった1人の人生の伴侶となるはずだった男。

その男の手を、なんと簡単に手放してしまったのだろう。そうとは気づかないうちに。

もうきっと、彼と同じように、何もかもが自然でいられる男など現れないだろう。

今でも、一人寝の夜、寒々しい布団をかき寄せて、真由が夢に見るのは、奏多の笑顔だ。「戻ってきてくれたんだ!」と信じられないような歓喜の中で、涙ながらに見上げるのはあの、子どもっぽい懐かしい笑顔だ。

そして目覚めて、それが夢だと悟って、今度は苦い涙がこぼれるのだ。

もうこれから誰と出会っても、奏多と比べることしかできないだろう。
二度と会えない、世界で一番愛していた、自分の分身の彼と。
そして、彼より深く愛する男など、きっといないだろう、と思うのだ。



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