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いい子でいる必要はないのか?

苦手の克服は誰かに勇気を
与えることなのかもしれない
とふと考えた雨の午後。

今日は
朝からの警報により
息子の幼稚園は休み。

いつもより寝坊して起きた朝。

仕事は山積みであっても
諦めるしかない。

何だって息子が家に
いるのだから・・・
と言い訳も十分だ。w

昨夜遅くに
インスタライブをした。

それもインスタで出逢った
大人の余裕を感じさせてくれる
色気も品格も知性も十分以上に備わった
素敵な女性と一緒に。

テーマは、
「いい子ぶりっこをやめると
仕事も人間関係もうまくいく」
と言った内容だ。

いい子であったことも
いい人であったこともない私にとって、
少し難易度が高いお題のように感じたが、

期待には応えたい。

いい加減な性格に思われることが多いが(引き出しが少し空いていたり、ペットボトルの蓋は基本的に閉まっていない・・・あ、こういうところだw)

人前で話す時や、
発信する際は入念に準備をする。

タイムスケジュールから、
台本まで緻密に仕上げる性格だ。

こんなことをバラしてしまうと
おもしろさは半減するかもしれないが、
おもしろさとは、
緻密な計算とちょっとしたズレで
おもしろくなると信じている。

それが関西人の性なのか、

カルマかわからないが、

笑いに対して貪欲なのは、

小さい頃から勉強をしなければ、

将来、

「よしもとに行くか、ヤクザになるか。」

という危機せまる選択を
余儀なくされていたからなのかもしれないし、

おもしろくないことは、
いい人でいることよりも罪が深いとさえ
思い込まされるのだから関西という
環境の賜物だ。(語弊があればすいませんw)

と言っても、
おもしろさとは、
人の美醜と同じく人それぞれであること。

だからこそ、
自分はどのラインの
笑いなら取れるか?
また、
どの笑いに進むか?

と物心つき始めた頃には考え始めるのだ。
それはまるで進路を決めるようなものだ。(多分違うW)

もちろん進路変更も可能ではあるが、
もともとものポテンシャルにもよると思う。

しかし、
笑いの学びというのは、
TPOに合わせて
自分のポジショニングを
変えていかなければならない技術も
余儀なくされるのだ。

だからこそ、
いつでも
柔軟でいなければならない。

禅の教えというのは、
時に、
瞬発的なものも求められる。

それは、
物事をあれこれ考える余地を
与えないということでもある。

人は意識すると、
大概、
しょーもないことを考え始める。
それゆえに、
世間体を気にして
行動できなくしてしまうという
付属品までついてくるのだから
厄介だ。

だからといって、
裸の王様ではいられないが、

裸の王様に、

「裸ですね。」
と言ってもいいし、

「王様の耳って、
ロバの耳っすよね?」
と言ってもいいはずだ。

それが、同時に
自分の言葉に責任を持つということでもある。

政治家がよく
あの時の言葉を撤回します。
など発言するが、そんな都合よく
記憶から消すことなんてできないし、
消してたまるかとさえ思ってしまうのだから、
きっと私はいい人とは程遠いのだ。w

たまにはいい人ぶりっこしてみたいと思う気持ちを
窓の外から見える豪雨に馳せてみようと思う。





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