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黒田官兵衛が幽閉された有岡城址 [兵庫県伊丹市]

(2020年8月の攻城記録)

1週間の西日本旅行、その初日まずは筑前福岡藩祖である黒田官兵衛が幽閉された有岡城址を攻めてきました。



まずは羽田から伊丹へ飛びました。
お盆が終わったというのに、ピーカンの天気で立っているだけで汗ダクダクです。


伊丹空港から有岡城址までは約5kmの距離で、何を血迷ったのか走っていけそうだな、と走り出してしまいました、、。暑さで頭がやられていたとしか言いようがありません。


なんだかんだで1時間弱かけて、ほぼ歩きで有岡城址に到着です。
原因はまだ履き慣らしていないランニングサンダルで来てしまったがために、靴擦れを起こして、水ぶくれを何箇所かこしらえてしまったためです。



JR伊丹駅すぐそばにありました。
これって普通に伊丹空港からバスで来ればよかったんじゃなかろうか、と一瞬後悔しました。


さて、城址内に入ります。
有岡城主だった荒木村重の案内板がありました。

村重さんは織田信長の家臣で、この有岡城を拠点として紀州征伐など健気に信長のために働いていたのに、ある時、なぜか謀反を起こすんですよね。
これには信長も驚いて明智光秀とか家臣を送って説得させ、思い直して釈明しに安土城に向かうんですが、、まあ、結局、有岡城に引き返してしまいます。そして、今度は黒田官兵衛が有岡城に行き、説得しようとするのですが、官兵衛を拘束して投獄してしまうんですね。


という有岡城なのですが、当時は総構えの城郭構造だったようです。
しかし、現在は本丸の跡らしきところしか残っていません。



建物の礎石に井戸跡。



もう1つ井戸跡がありました。



当時の石垣も少し残っていました。



有岡城址史跡公園の周りをぐるりと回ってみました。

気持ちだけ土塁の跡らしきものが見られます。



伊丹駅前の案内板です。
どのような範囲での総構えだったのかが伺えます。

有岡城主の荒木村重さん、どういう理由で信長に対して謀反を起こしたのか諸説あり、はっきりとした理由はわかりませんが、この城に約1年ほど籠城していました。しかし、最後は信長たちに攻め落とされ、落城、、、なんですけど、、、

この方、その落城前に、もうやばいと思ったのかは知りませんが、側近数人連れてこっそりそのそばの尼崎城に逃げてるんですよね(怒)
潔く、自分の命と引き換えに妻子や家臣たちを助けて欲しいとか交渉するわけでもなく、、当然、信長の逆鱗に触れて、荒木村重の妻子、家臣やその妻子、約300人が処刑されてしまい、想像しがたい地獄絵図だったようで、、。 で、その村重さんは逃げまくって、しまいには信長の死後は豊臣秀吉に拾ってもらってますからねえ。村重を信じてついて来た家族や家臣を簡単に見殺しにすることができるとは、人としてどうよ?レベルですね。


そして、1年近く投獄された黒田官兵衛は、、
織田信長に裏切り者と勘違いされ息子(黒田長政)を殺せとか命令下されるし(竹中半兵衛のファインプレーで殺されなかったけど)、1年の投獄生活で身体へのダメージが半端なく、後遺症が残ってしまったりと散々ですよ。


遺構はほとんどありませんが、伊丹駅への用事のついでに訪問するとよいかも。


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