筑前52万石 黒田長政築城の福岡城 [日本100名城] [福岡県福岡市]
(2020年10月の攻城記録)
昔、福岡市に3年程暮らしていたのですが、その時は福岡城跡というよりも舞鶴公園、、平和台球場とか陸上競技場とか運動する場所という認識で、かつて福岡城があったということは全く気がついてもいませんでした。無知とは恐ろしい。
そんな福岡城跡を改めて訪問してきました。
豊臣秀吉の軍師、黒田官兵衛の嫡男である黒田長政が関ヶ原の戦いでの功績で豊前中津城から筑前名島城へ移ってきます。16万石から52万石という大出世ですね。
筑前名島城には関ヶ原の戦いで途中で東軍に寝返った小早川秀秋がいたんですが、ヤツは岡山城へ移るんですよね。
で、黒田長政は戦略的にか立地的にか、名島城を廃城にして、新たにお城を築きます。それが福岡城です。黒田家ゆかりの地とされている備前福岡の名前をつけます。つか、黒田長政は竹中半兵衛のファインプレーがなければ、、と考えるといやはや面白いですね。
福岡城は城や城下町を掘りや土塁で取り囲んだ惣構えという城郭構造で、東は那珂川、西は大濠公園まであったスケールの大きいお城で、加藤清正に「この城なら30-40日は落ちないんじゃね?」と言わしめたほどですが、西南戦争の時の熊本城も凄かったぞー。
ということで、地下鉄「赤坂駅」で下車して、福岡城攻城開始です。
駅を出てお堀沿いに大濠公園方面に歩いて行くと、まずは上之橋御門跡。
枡形門の形跡が残っておりますが、この先工事中のため行き止まりです。
平和台球場跡の広場を横目に進んで行くと、福岡城むかし探訪館という案内所があります。ここを覗いてみて、福岡城について軽く知識をつけて行くと更に面白くなると思います。(織田信長から与えられたという名刀、へし切長谷部のレプリカがあったんですが、その後、本物を福岡市立博物館で拝むとはつゆ知らず、、眼福)
福岡城むかし探訪館の前には東御門跡。
この枡形門の跡を抜けると、左手にはラグビー場が見えますね。
さらにまっすぐ進むと、扇坂御門跡。
二の丸に入りますが、現在ここは梅園になっていました。
二の丸跡を抜けて、表御門跡へ向かいます。ここが本丸への正面玄関です。
本丸跡に到着です。
御時櫓跡、これは城内に時を知らせる櫓だったのでしょうか。
いよいよ天守台へ。
なかなか大きい天守台なのですが、桜の木が邪魔で石垣がよく見えない、、、。
石垣の保存修復工事、お疲れ様です!
、、、にしても、木が邪魔だなあ、、。
さて、天守台に登ります。
天守台、想像以上に大きいです。
天守の礎石??
福岡城に天守はあったのか、なかったのか、まだはっきりと分かっていないようです。当初はなかったということだったのですが、後に出てきた資料に天守の存在が伺えるような記述があったとか、、こういうのが歴史のロマンですよねー。
ここまですごい城郭なので、私は天守があったに1票入れたいですけど(笑)
天守台からの眺め
百道方面や天神方面が一望できます。
さて、裏御門跡から、そろそろ撤収しましょうかね。
天守台そばで何やら工事をされている人たちがいらっしゃいます。お疲れ様です!
本丸の石垣なんですが、矢が掛かるように石垣が折れているようですが(屏風折?)、桜の木のせいで非常に見辛い、、、。
この場所は桜の名所で、それはいいんですが、立派な石垣が綺麗に見えるような配慮が欲しいかも、、。
と、門跡があるとみてみたくなる。
門跡というより、櫓跡だったようで、生捕櫓跡のこと。
ん?ここは何でしょう?
多聞櫓でした。
江戸時代から城内に残っている唯一の櫓だそうです。
桐ノ木坂御門跡から福岡城址を後にします。
三の丸跡にポツンと佇む名島門。
そのそばには、旧母里太兵衛邸長屋門。
え?母里太兵衛といえば、黒田二十四騎の1人でもありますが、例の市松くん(福島正則)のお酒でやっちまったぜ、天下三名槍の日本号の相手?
(福岡市博物館で本物を拝めます。)
ここは隠居した黒田官兵衛の屋敷跡。
そして、下之橋御門と潮見櫓を抜けて、
福岡城攻城はこれにて終了です。
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