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小早川隆景が築城した名島城址と筥崎宮の楼門 [福岡県福岡市]

(2021年11月の攻城記録)


福岡滞在中にちょっとランニングがてらに小早川隆景所縁の地を見てきました。

豊臣秀吉による九州平定(=島津征伐)の後、毛利重臣の小早川隆景に筑前・筑後国を与えられます。小早川隆景といえば、三本の矢のエピソードで知られる毛利元就の三男で、兄の吉川元春と「毛利両川」と言われてましたよね。山陽道、毛利水軍の親玉。

というか、毛利家の重臣であり、兄、隆元の亡き後、家督を継いだ甥っ子の輝元を支えながら、筑前・筑後まで任されるなんて大変じゃない?
「いやいや、無理っす。」「いや、それでもやれ。」
なんてラスボスとのやりとりがあったのかもしれませんね。
どんだけ気に入られてたんだか、ほんと。

そんな小早川隆景ですが、もともと大友氏の家臣だった立花氏が出城として築いていた名島城に目をつけます。海の近くで水軍の本拠とでき、中国地方と行き来しやすいところってことで、この名島城を改修して、小早川隆景の居城とします。


地下鉄貝塚駅から結構歩きますが、名島城址公園、もしくは名島神社を目指します。


平山城跡ですので階段を登ると、このように開けた場所に到着します。
この一帯が名島城の本丸跡と思われます。


現在は公園になっていますが、名島城跡であることを示す石碑があります。

案内板の名島古城図がありますが、思った以上に大きな海城だったんですねえ。



名島城址の遺構は、公園の片隅にある隅櫓跡の礎石と、



広々とした公園内を突っ切って降っていくと、



門跡らしき場所に石垣跡がいくつか見ることができます。



こちらもほんの少しだけ残ってますね。

もちろん下にある石垣は公園整備時に作られたものですね。



本丸跡地から福岡市東区を一望してみます。

いやはや、すっかり景観は変わってしまいましたが、でも山や海は当時と変わらないはず。


その後、養子となった豊臣秀吉の甥、小早川秀秋に家督を譲ります。秀吉亡き後は、関ヶ原の戦いで西軍に与したはずがナイス裏切りで、備前岡山に加増転封となり、この筑前には関ヶ原の戦いで東軍で活躍した黒田長政が入封します。


で、ここに城下町がちょっと作りづらいってことで、福岡城を築城することになります。その際に、名島城から石垣とか門とか色々使えるもんは持っていかれちゃったので、遺構があんまりないっていう理由の1つでもあります。福岡城址の三の丸跡地にある名島門もしかり。


福岡城が完成した後は、この地には名島神社が残ったとか?



ほんと目の前は海ですね。

この地に淀君とか船でいろんな人たちがやってきたかと思うとロマンだわー。




名島城址を後にし、次に向かった先は、筥崎宮です。

福岡で暮らしていた時、東区にも住んでいたことがあったので、バスや地下鉄ではよく通っていましたが、お参りとかしたことありませんでした。

筥崎宮についてはあえて説明しませんが、1274年の元寇の際には社殿を焼かれたり、何度かの火災に見舞われたのですが、現在の本殿と拝殿を大内義隆(毛利氏が台頭してくるまでは中国地方を治めていた)が、そして、楼門が小早川隆景により再建されています。


ちなみにこの一ノ鳥居は、福岡藩初代藩主の黒田長政建立なんですね、知らなかったー。

鳥居が3つのパートに分かれていて、ちょっと不思議な感じですね。
で、よくみてみると、「豊臣黒田筑前守長政 建立」って刻んであるんですよね。これ、いつ掘られたんだろう?慶長14年(1609年)建立ってあるんですが、だとしたら、当時、わざわざ「豊臣」ってつけるとは思えないんですよね、、随分後になってからかしら?



で、こちらが小早川隆景が再建したという楼門です。

「敵国降伏」とあるのは、元寇の際に亀山上皇が納められた御宸筆を小早川隆景が模写拡大して掲げたものとか。



元寇といえば、境内には蒙古軍船碇石なるものがありました。

鎌倉期はまだまだ勉強不足で(というか、全てにおいて一生勉強だと思っていますが)、これから少しずつ勉強していかないとねえ、、。



更に、小早川隆景から脱線し、気になるパワースポットが、、、

とりあえず、触れてみました。



更に、こちらもすごいですね。

パワーを頂いた感じがします。



ということで、サクッと走って、まさに駆け足で見てきました。


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