イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル
国立新美術館にて、「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」が開催している。美術館に入った少し経つと、この言葉が掲げられていた。
「イヴ・サンローラン」という人がいることは知っていたが、これほどまでのファッション・そして現代にもう受け継がれる「スタイル」を生み出した人物だとは知らなかった。
この展示会では、イブサンローランという人物は一人の人間なのだろうかと思わされるぐらい、創造性の嵐に揉まれることになる。
この展示会を見ながら、僕は3つのことを考えていた
天才は、想像の世界の中を生き、想像の世界に描き出された"形"をモノに落とし込む力が並外れていること
ファッションとは、何らかの型の変形として存在する形態だが、そこに流れるスタイル/形式があること
服とは、人間が自分自身を表明する一つのメディアだということ
想像をモノに変換する創造性
服が完成するまでに、たくさんの工程を経る必要があるということは、素人の僕でも何となく想像がつく。
まず服のイメージが2次元ないし、3次元のイメージとして書き起こされ、それを実現するために糸・布を選び、具体的な服の形のパターンが作り上げられていく。
出来上がったものが想像した良いモノであれば、それは量産されるかもしれないし、1点ものの服として世に出回るかもしれない。
この個展で一番最初に出てきたイブサンローランが書いた「デザインラフ画」は、失礼を承知で言うが、「僕でも書けそう」だとおもった。しかし、「僕でもラフ画を書けるかどうか」は服の本質において一切関係のないことだと言うことが次の展示を見て思わされる。
ラフ画を眺めた後は、大量の服に圧倒される。美しい服が立ち並ぶのを眺めながら、「ラフ画を形に落とし込む執念に、天才性が宿るのだろうか」と思った
これは服に限ることではないのではないだろうか。日々の仕事でも、自分で絵を描いてみること、文章を書いてみる時もそうだ。
頭を使って、そして手足を動かすとき、多くの人は「イメージ」する。
そのイメージをできるだけ再現しようと試みるが、多くのものはイメージ通り再現されないもどかしさを抱えながら出来上がってしまう。
この出来上がりへの執念に、創造性がやどるのだろうか。
僕がもし今後のファッションの「スタイル」となり得るようなラフ画をかけたとしても、それがスタイルとなり得るような服に落とし込むことはできないだろう。
僕にはその執念もないし、その差分を正確に認知するセンス・美意識もないから。
行ったことがない国を想像しながら生まれた「国の服」
展示の途中では、イブサンローランが行ったこともない国のイメージを、日々読んでいた本から得た情報をもとに抽出し、落とし込まれた服が展示されている。
鑑賞者としての僕にとって、「その服が本当にその国の雰囲気を表現しているか」と言うことはどうでもよかった。「その国の雰囲気をイメージして、その想像力を膨らませ、何らかの雰囲気を帯びている」と思わされたことに感動した。
イブサンローランは、想像の中、本の中の世界から得たイメージをそのまま保存し、彼自身のリアリティに落とし込んだ。「美しいものは、その中にある」と信じていたのではないだろうか。
何かを知ると、想像を破壊される。窮屈な現実という悪魔が、人の思考を制約する。その制約を全て無視して生み出された「国らしい服」はとても美しいものだっった。
しかし難しいのは、僕を含めた多くの人の制約のない想像は、美しくないことだろう。
ファッションは時代遅れになるが、スタイルは永遠である
その言葉の後には、「自分が作っているのはスタイルだ」と言わんばかりの服が並ぶ。
僕が知っている服がたくさんあった。本当に彼がこの全てを生み出したのかどうかはわからないが、僕が知っている服の源流には、限られた「スタイル」しか存在しないのではないかと思わされた。
服は無数にある。無限と思われるほど、たくさんの種類の服がある。
しかし、その無限の中には、有限のスタイルが潜んでいる。
そのスタイルを生み出されるときは、きっと他のスタイルの重ね合わせであったり、オマージュであったりするのだろう。
人々に受け入れられた「スタイル」は、その後無限増殖する。そのスタイルで服を作るデザイナーも増え、より人気も集まるようになっていき、もはや「オリジナル」と言う概念は消失していく。
そのスタイルが流通し続けるには、そのスタイルの根幹に流れた芸術性に多くの人がどこか"良さ"を感じるからなのだろうか
服とは、人間が自分自身を表明する一つのメディア
服とは、その服を着る人間自身を表現するメディアとしての機能を持つ。
きている服に、その人間のアイデンティティの一部が切り離され、その服がその人間のことを「語る」ようになる。
人は足という能力を車という強力なメディアに転換した。
人は、自分自身の個性・アイデンティティといった、つかみたくてもがいている何かを、服を通して表現することができる。
イブサンローランの時代と、現代における人間の価値観は大きく異なる。
ただ、引用した文章から、彼は女性が何かを表現する1つのメディアとして、服が存在することを夢見ていたのだろうかと感じた。
彼が作った服を着た女性が、抑圧から解き放たれ、その人間らしさ・個性と呼ばれる何かが現れることを願った。
服のメディアとしての機能は、現代にも通底する。
服の種類によっては国民性が感じられる服もあるし、服によって身近な人の「あの人らしさ」を感じるような人もいるかもしれない。
もちろん、全員が全員、服を自分を表現するメディアとして活用するわけではないし、自分を表現する手段が多様化している現代においては、そうあるべきだとも思わない。
けれど、服にもそんな力があるのだと、服が大好きな僕は願った。
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サンローランの服は一着も持ってない僕でもすごく楽しめる個展でした。
見たことあるような服、見たことない新しい服、そんな服を眺めながら、服というモノについて考える楽しん時間でした。
ただ、ありがとうございます。 きっとまた、「なにか」を届けます。