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心のたまり場



つい先日、関東にも雪が降った。寒々しい空気を感じてカーテンを締め時々気になる雪の様子を伺いながら暖房つけていない自宅で工夫を凝らしながら雪の季節を実感した日であった。空調が苦手なので冬をどう乗り切るか考えを巡らせている


私は中学生の頃から精神科の入退院を繰り返している。小学生になり、上級生からだったり同級生にもいじめられることが続いた。低学年のときは一つ年上の上級生に嫌がらせや悪口などだった、その上級生たちは地区班が同じ男子生徒3人で私の悪口を言ったり当時私が習い事で行っていた「空手」についても侮辱してきた。そして3年生に進級した際には新任教師が1ヶ月もせず休職して退職したりなどの学級崩壊が起きていた隣のクラスの生徒も混ざったことにより、いじめのターゲットになった。低学年のときに学校が好きで無欠席だった私の学校生活は一変した

ドラマにありがちな派手ないじめではないものの、嫌がらせや遠回しに仲間外れ・悪口・精神的苦痛を私に見える範囲でする…などを教師が見ていないところで行い、周囲の生徒は見てみぬふりやいじめの加担をするのだが、都合よく「良い生徒」の教師に媚びうるためにそのいじめのことを担任に報告する。派手ないじめではなくとも陰湿かつ卑怯な生徒が多かった。私の小学校の風潮は

【 いかに自分に被害や標的にされず過ごせるか 】

があからさまであった。しかしそれは「集団同調性バイアス」が働いた状態だろう。なので、恐らく小学校の同級生は私にいじめた感覚や見てみぬふりした自覚はないと思う。それはいじめを否定とかではなく、認めたくないのではなく

あの小学校の風潮から来る同調性や協調性

に過ぎない。中学生以降に知り合った人や病院の仲良い患者さんや職員、母や姉にエピソードを話すと

「異常だよね」「そんな風潮は当たり前じゃないよ」 「なんか特殊な環境だよね」

と言われるし、私の心身の影響や自分の解釈でも「いじめ」と思っているし、周囲の反応からしてもいじめであることは間違いないし、当時の環境や風潮の異常さは明らかだ。だが小学校在学中はそれが当たり前で過ごしていたため、担任や周囲の生徒からは「ふざけ合い」程度の解釈だと思う。あくまで

〈 正しい選択をした 〉

に過ぎない。

集団同調性バイアスについては下記のリンクで

確かに私はその学年内では変わり者だったのかもしれないし、浮いていた存在だったのかもしれない(だからといっていじめて良いわけではないのだけれど)いじめる側ってそもそもその自覚ないか自覚してもその事実を認めることに対して被害者意識を持つことすらある

そして心身の不調で精神科に足を運ぶと奇異の目と偏見にさらされ精神科に入院する。でも日本は 『 精神科大国 』と比喩されるほどに精神科病院や病床が、患者が多い。それらの精神科医療に対し政府や団体がつべこべ言うが、それが本当に精神科医療、いや、患者のためになるのだろうか

そもそも患者は何かしらの ” 被害者側 ” であることが多い。加害者側なのはほぼ一部であり、何かしらの加害行為の経歴があったとしても環境や人生背景が存在している

加害者の教育や更生、賠償や罰することは余程の被害や目にわかる傷や最悪の場合の「死」でないと、そこまで犠牲の範疇を遥かに越え当事者の声なき存在までに事が大きくならなければ罰するに罰することができない、そこまで事が重大な案件にならなければ

「過去のこと」  「神経質」  「精神障害者」

などで済ませる事ができてしまう。でも考えてみれば、時間というくくりで言うなら過去も今も未来もその人が生きてる時間の中での体験という概念が消えるわけではない

過去のことは過去で許してやり水に流し、今や将来に期待や人生の長さの中に期待をする、将来があることの重さや絶望、ましてやまだ見ぬ先の人生やビジョンに期待できるような環境や過去がなかったりそれらを他人により身内により崩壊された者に対し強いることはかなり酷な話であり無責任であろう

そしてその被害者側への偏見や政策などは精神科医療・福祉提供の場の肩身を狭くさせる。そしてその偏見や世間体に同調をするということ、非難・排除することは精神科従事者の葛藤や従事・やり甲斐や誇りも勿論だが患者の安寧や居場所までも蔑ろにすることと同じだ。精神科は確かに身体的ケアは比較的少ないのは患者からしてもそうだが、精神科という診療科とその従事者に救われている、守られている命が人生があることは紛れもなく事実であり、否定しようのない立派な医療である

『 精神科 』というところに焦点を当て否定し、偏見を正義や同調に加担するのは救われた命や救い手への軽視や侮辱にも思えてしまう

肯定は望まなくともせめて被害者が人生で報われる制度を、加害者逮捕や懲役をするだけでなく更生かつ直接償う世の仕組みを推進や検討されて欲しいものだ

偏見をなくすだけでは何も変わらない、しかし肯定は望まない

線引きはかなり絶妙な塩梅ではあるが、答えがない人生と世の中でも少しずつ各々が生きやすく、生きやすいまでといかなかったとしても

〈 この世界でもう少し生きてみても良いかも 〉

〈 この世界も案外悪くないな 〉

とまだ先の未来でも、いつかはそう思える世の中や世界に近づいていることを。いつになってもいい、無事1日を過ごし、それを気兼ねなく積み重ねようとすることに否定的にならない世界に、社会になることを願わずにいられない。

またいつか人間として生まれたときにそんな社会であって、

いろどりの人生 〜season2〜

でも開幕したい、その自惚れに浸る駅前の大手カフェでの昼下がりであった


By.彩璃