『伝習録』(でんしゅうろく)を知る➉:読書と講演会、解読力と認知の拡大

心学の修行の行いは?

徐愛は、王陽明の弟子、中国明代の陽明学者です。
徐愛(じょ あい)は王陽明に質問しました。
「もしあなたの言うように、“心即理”であり、修行は心にだけ行うべきなら、多くの外在的な規則や知識は学ぶ必要がないのでしょうか?例えば、父を敬うこと、君主に忠義を尽くすこと、友人と誠実に交わること、民を治めることなど、これらには多くの道理や方法、道具があります。これらを学ばないわけにはいかないのではないでしょうか?」
王陽明の答えはこうでした。
「もし純粋な天理の心を修めたなら、その心が父を敬う時には孝となり、君主に仕える時には忠となり、友人と交わる時には信となり、民を治める時には仁となるのです。」
しかし、徐愛はまだ納得できなく、また伺いました。
「例えば、私たちが親孝行する時、細かいところまで気を配る必要があります。冬には親を寒さから守り、夏には暑さから守るべきです。夜には親が寝るまで休まず、朝には親に挨拶する(これを温情定省(おんせいていせい)と言います)。あなたは心の修行だけを行えばよいと言いますが、これらの外面的な理解や規則はすべて考慮しなくてもよいのでしょうか?」
王陽明はこう答えました。
「もちろん重視します。ただ、心から重視すべきです。もし親孝行を尽くすなら、その孝心には一分一厘の私欲もあってはなりません。例えば、ある人が温情定省(おんせいていせい:親孝行をすること)を行い、冬は暖かく、夏は涼しく親を世話するとしても、それは本当に孝行でしょうか?もしかしたら、彼は単に大孝子のふりをして他人に見せているだけかもしれません。その孝行は彼の人物像(キャラクターの設定)であり、そのキャラクターの設定を通じて多くの利益を得ることができます。それは純粋な心ではなく、その孝行の背後には功利の心があります。」

もし心が私欲に遮られていなければ、これらの礼儀を学ばずとも自然にできるようになります。
これを水到渠成(すいとうきょせい)※1と言います。
寒い時には、子供が自然に親が寒いだろうから服を用意しようと感じ、暑い時には、親が自然と扇子を手に取り、子供に扇いであげます。これは心からの関心と愛情によるものです。
心からの気遣いの表れです。
※1:水到渠成とは、物事は条件が整えば自然に成就するということ。

だからこそ、
これらのことを心から行うのは、何かの規則や誰かの監視の目があるからではなく、孝行の心があるからです。
したがって、修行の時にそれが煩わしいとか負担だとは感じません。
この心は木の根のようなものであり、それに基づいて育つ枝葉が礼節です。根があってこそ葉が生じるのであって、枝葉を先に探してから根を育てるのではありません。これは良知を背くことです。

王陽明の言葉をお借りすると、
「深い愛を根とすれば、自然とそうなる。愛する心があれば、すべては自然と行える。もし心からの深い愛がなければ、何をしてもただの演技に過ぎない」。
ここで誰かが「心学とは内心に従うことだ。だから自由奔放に生きればいいんだ」と言ったとしたら、それは違います。そういうことではありません。

心学は規則や礼儀を無視するわけではありません。
どのように注意を払うかが重要です。
王陽明と徐愛の会話から見ると、徐愛の視点は他律にあります。
つまり、「私は両親を孝行し、友人との交流、忠君愛国などはそれぞれの原則に従って行動すべきだ」というものです。
これは外部からの要求に応えるものであり、私はあなたの要求に応じて行動する、というものです。
一方、王陽明の方法は自律に戻ることです。
つまり、「どんな規則があっても、もし心が純粋であれば、人間関係や世の中の事柄は心から生まれるものであり、あなたの内なる根が深く、正しいならば、あなたは良い人になれる」というものです。

『伝習録』には、
段階的に学問する方法がある。
より高く自己修行する入門書である。
認識の拡張が展開されている。
批判的思考(クリティカルシンキング)がある。
心即理(しんそくり):修行は心である。


自燃人、不燃人、可燃人とは




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