「優しい曲」に隠された綾(2)
さて。下記のような事を書いたとしよう。
いきなり、それを作ろうとするな! と僕は教える。
というのは、そういう事を教えてもらった生徒の殆どがそうだったのだが、即座にそれを何も考えずに真似て作ろうとする。
テクニックを教えてもらうと、それを即座に試してみたくなるのも、それは人の情として分からない訳ではないのだ、が。
私がお勧めするのは、実に簡単な事だ。
今、教わった目線やテクニックを踏まえながら、過去に自分の好きだった曲を、もう一度、広く眺め渡してごらん、というだけなのである。
今までの自分が好きだった音が、また、違った角度から楽しめるのじゃないか?ということです。或いは、今まで気づけなかったことに気づけるのじゃないか?
もしかしたら、君は過去に好きになった曲の、そういう「自分を虜にした音楽のプロの操っていた秘密」を見落としてるんじゃないだろうか?
それを見つけに行った方がいいんじゃないか?と言いたいだけなんですよ。
てのは、カンタンな話。
私からさっき「あっ!革靴の音!」って言われて気づいた点があったとするでしょう?
それは「擬音」というものをうまく使った情景描写なんだけど。
靴の音は、コードや調性には全く関係のないドラムの醸したサウンドエフェクトなのであって。
実は、ギターやベースなどの楽器が、それを旋律を伴って、演奏していたらどうなるんでしょうか?という話なんだが。
Steam engine?蒸気機関?
いやさ。
子供の頃から、こういう形で音楽に触れさせてる方が、子供の情操教育には一番役立つと思うんだけどな。別に、こんな聞き方が悪い訳じゃないのだと思う。寧ろ、音楽で何かを表現するって事の手法が、無数にあるという事を学ぶきっかけになるんだよな。
しかも、この曲、終わり掛けに何か、きちんと動いてたものが壊れかけていくようなギターの素っ頓狂なプレイがあるのに気づけるかとか。
そういうのを理解してから、歌詞を楽しむ方が、より面白いと思うんだけどねぇ。演奏でそういう様を物語にして表現しているとか。
音楽の中にストーリーや物語を描く技法の一つなんですけどね。これも。
コードや調性だけが、音楽の表現ではない、ということ。
で、実は、本当の音楽理論の中には、どんな時ならスケールを外れた音を使用していい、という基本ルールがある事を、実は日本人の多くが知らないでいるのだ。
それを分かった上で、敢えて外す とか その 基本ルールに従う を自分が作品の中で的確に判断して、その場に応じて使い分けられない人は。
常から、調性から外れたスケールを弾かない、或いは、100%デタラメしか弾かないから、底が浅い、と言われるんだろうな。それは、モードともいささか違ってるよ?
で、いきなり、何も考えずに、テクニックを上辺だけ真似るだけだと、そのテクしか使えない人になってしまうってだけなんですよ。他にもたくさんそういう技法ってたくさんありますよ、ってことを気づけないまま、狭い視野の中に閉じこもってしまうから、一回、それから離れて、自分が好きだった音楽を聴いてみてはいかがですか?ってだけなんだけど。
どうも、人から褒められたいとか、金稼ぎたい、って、その結果を急ごうとする人たちってのが多すぎるのか、安易に上辺のテクニックだけを真似ようとする人ばかりで。
結局は、そういう勉強方法の間違いを続けてると、いつまで経ってもなにも身につかない、ってのは、間違いなくあるんだと思う。勉強しているからこそ、テクニック辞典みたいになってるけど、その使いどころを間違いまくってる人とかね。
そういう人を、私の友人は一言言っていた。
「理論的には正解だけど、音楽としては間違いなこと」
蓋し、名言だと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?