「優しい曲」に隠された綾(1)

皆さんが「優しい曲」を作ろうとして失敗するのは何故か、だけ書いておこうか。

卵粥を作って、それを毎日食べる事って、非常に難しいのよな。

例えば、音楽でいうのなら、破綻の無いコード進行を選び、ゆるやかな音の世界が広がり、素朴に流れていく音楽を作ろうとする。

その狙いは、恐らく間違いではないし、実際、作曲を志した多くの人がそういう選択肢しか選びようがないのだろうと思う。

転調を繰り広げるような忙しなさ、みたいなものも省こうとするだろう。

楽器も優しげで柔らかな響きを選び、入念に丁寧に構築していこうとするだろう。

必然、誰もが選びそうな選択と回答に自然に収束していく。

だからこそ、その方向を追い込めば追い込むほど、誰がやっても似たり寄ったりに落ちる、って事を、まず真面目に考えてないんだと思う。

卵粥、卵とお米。

実にシンプルな組み合わせだからこそ、凝る場所も限られて来るだろう。多くの場合

「選りすぐりの健康な鶏の生んだ卵の中から吟味した超一級品!」
「信頼できる農家と独占契約を結んだ田んぼで作った無農薬の米を、精米も丁寧にして作りました!」

とまあ、それで卵粥の付加価値を上げようと試みる。こうした試みって、日本のミュージシャンが良くやらかしがちな勘違いのような気はしてる。

名手のプレイヤーが、高級なビンテージのアコースティック・ギターの音を、高品質のマイクで、最高級のスタジオで録音し、録音品質を上げたところで、それは付加価値になり得ない、ということだし、それが「僕らが製造コストこんなにかけたんです!」と言った所で。

卵粥は、卵粥の弱点から容易に逃れられない。
寧ろ、それがそうした素朴な演奏に向かう、難易度の高さと言えるのだ。

元々、卵も粥も、それ自体には何の旨味も含まれている訳ではない。
それ自体が淡い味なのだ。多少、材料に凝った所で、その弱点をカバーするには至らない。

それを、クリアで鮮明に録音した場合、ある種の素っ気なさばかりが見えて来る。これは不思議な感覚だと思う。

卵と粥のようなシンプルで優しい味わいを、ことさらに丁寧に作り過ぎると、とっかかりが何もないまま、最後まで食べ続けることになる。食べ続けていくうちに、どうにも飽きてくるのである。

ごく、ありきたりすぎる展開だからこそ、その先の展開も見えてしまう。


これと似たような事は、音楽でもあるのだが。

そうすると、曲を聞いたって満足感や充足感よりも、腹を満たしただけ、みたいなものが出来上がりがちなのだ。

ぶっちゃけ言えば、こういう曲って3回も聞けない。
繰り返し聞こうとする聞き所が無いまま、ただ、さーっと流れていく。

音楽理論を使って作れるものというのは、実はそういうことであり、そこ止まりなのだ。


だからこそ、そこから先の一手工夫を、その人なりに試みないと、誰がやっても似たり寄ったりの事になる。 そして、多くは、そこ止まりで終わってる。

まあ、プロの作曲やアレンジの達人は、そこから先の一手工夫をして、自分の作品として仕上げている訳ですけど、キツイ言い方をすれば、この手の事は、日本で相当なクラスのプロがやっても10中8、9はしくじっているのが、実情だと思う。

単に優しい味わいのモノを丁寧に作ったからって「卵+粥」を毎日食べるには、相当の「惹き」とか「魅力」ってのが必要でしてね。

単純に素朴でシンプルだからいい、って訳ではない。

楽器演奏を個体で考えるのではなく、それより、寧ろ、歌い手の声質と楽曲の流れのマッチングとか、演奏上の流れでの一工夫とか、或いは、そこに対する音選びの工夫みたいなものを凝らしたりする目線が、もう一段上の発想に行かないといけない、と個人的には思う。

或いは、これが一番重要なんだが、違和感に感じない程度の絶妙な変化を、やり過ぎない程度に織り込む工夫を凝らしているって事。

個人的に、この曲をずっと、19歳から20歳の壮絶な鬱の時に聞いてた事がある。私の本当の重度の鬱の時なんて、これ聞くのだってやっとなのだけど。

イントロのギターのアルペジオの鮮烈さはさることながら。これを日本人に弾かせたら、もっと前のめりにつんのめった感じになって、のっぺりしたものになってしまうだろう。

この曲、素朴さの中で惹きを作るのがトコトンうまいな、と思って聞いていた。

特に、ドラムしゃしゃり出る訳でないのだが、嫌味の無いリムショットとクローズ気味のハイハットワークで、トコトン曲を丁寧に引っ張っていき、ここぞという所で重心の効いたタムを繰り出して。それもひたすらイヤミじゃない。

・・・ああ、昔の友達を思い出しながら、昔過ごした田舎の町の街並みをテクテク歩いている革靴の音・・・その速度と情景だ。

英語の歌詞なんか知らなくても、伝わってしまった。

過去の切ない思い出を振り返るような曲なのだと。

歌詞を後から読んで確かめて、ああ、やっぱりね。
演奏で、その情景を描いてるのだ。

こんな風に、ただ、歌と歌詞だけで感動しました、みたいな話では無いと思うんだが。むしろ、演奏が、その情景の中の音を、音として風景に描こうとしているのだよね。日本人は、こういう聞き取り方が、えらく苦手な人が多いように見える。

だからこそ、私が、曲を教えている若者たちに、「自分が好きになった曲の好きになった要素をキチンと言葉であげてごらんなさい」と散々に言ってるんだが。

たまたま、君が、歌と歌詞にばかりで感動したからって、君が飽きずにその音楽を繰り返し聞き続けることができた要素は、本当にそればかりだったのだろうか?

という話。

派手ではないが、目に見えない工夫が、さりげなく凝らされているからこそ、多くの人は気づきにくい。

だが。それが、無意識の外から、その人に情景を思い起こさせている、という事は間違いなくあって、それが何となく言葉にできない物足りなさを聞く人に与えている場合もあるのだと思う。

見落としている演奏の綾というものは、間違いなく存在している。

それにふと気づいた瞬間に、演奏はこれほどにも豊かになるのか、と気づかされるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?